48. 生きる理由 前編
テレーズの目の前に一人の女性が立っている。
「ご機嫌よう、マリー・テレーズさん」
彼女はシャントレンヌ夫人。テレーズの話し相手をしたり、勉強を教えたりするため、これから通いで来てくれるという。
この部屋に、自分以外の女性がいる。
一年前、叔母と引き離されて以来のことだ。
「ご、きげ、ん……」
テレーズの口から出たのは、ガリガリした、しゃがれ声。
痛みはないものの、とっさに喉を手で押さえた。
「大丈夫、あなたの声のことは聞いているわ」
ゴマン氏に話しかけて以来、少しずつ声を出すようになったが、まだ元の声に戻らない。何か伝えるときは筆談に頼っている。
「私はずっと田舎暮らしで、パリには慣れていないの。でもあなたのためにも、いつまでも不慣れだなんて言っていられないわね」
テレーズは改めて、シャントレンヌ夫人に向き直った。
その姿が叔母を思い起こさせる。同年代に見えるだけでなく、雰囲気がどことなく似ている。
叔母は今どうしているのだろう。母と弟も。
翌日から授業が始まった。
教わる予定の科目は、歴史、地理、絵画、音楽。
歴史と地理は、声を出してテキストを読み上げる。発声練習も兼ねており、黙読よりも内容が頭に入るという。
「ゴマンさんから聞いたわ。塔にある蔵書を読んでいるそうね」
シャントレンヌ夫人の視線が、寝台の横にあるテーブルへと向けられる。
あそこに置いてある本なのかと聞かれたので、そうだとテレーズは答えた。
待遇が改善されてからここ一年近くの間に、すでに何冊も読んでいる。
ゴマン氏が持ってくる蔵書の中には、父が読んだ本もあるはずだ。
「あなた、も……よんで……」
短い返事でないと、声を出すのに時間がかかる。
それでも発声練習を始めたのを機に、出来るだけ声を出すようにと、シャントレンヌ夫人から言われた。
「もって、いけた、ら……」
こちらの言いたいことが通じたようで、彼女は微笑んだ。
「許してもらえるなら、ぜひそうするわ」
知り合ってまだ間もないが、彼女と親しくなりたいと思った。
互いが読んだ本について話をしたい。そのためにも、声を元どおりにしたい。
ひとつ目標が出来た。
テレーズは彼女のことを、ルネットという愛称で呼ぶようになった。
後日、塔のバルコニーに出ることが許された。
よく晴れた夏の日。
扉が開かれた。外の世界へ続く扉が。
胸を弾ませながら、テレーズは一歩を踏み出す。
看守が配置された殺風景なバルコニー。
そこから視線を上に向けると、
(きれい……)
子供の頃から一番好きだった色が、一面に広がっている。太陽の光は、こんなにまぶしかっただろうか。
何歩か歩いたところで、めまいがした。
よろめいたが、そばにいたルネットに支えられた。
「大丈夫?」
「ええ」
「中に戻る?」
否と答えた。
今一度空を見上げ、深呼吸をする。
空気が美味しい。
悪臭と人いきれに満ちて、汚いだけだと思っていたパリの空気。それをこんなふうに感じる日が来るとは。
テレーズと弟は、いつまでこの塔に閉じ込められたままなのだろう。母や叔母とは、いつになったら会えるのだろう。
毎日のように考えていること。
不安な気持ちが、喜びに影を落とす。
すると、正面にある建物に目が留まった。
上階の窓から一人二人と顔をのぞかせ、こちらを指さす人々。テレーズが姿を見せたことに驚いているのだろうか。
彼らから敵意は感じない。
だが見世物にされている気分だ。
「テレーズさん、扉の方を見て」
ルネットに声をかけられ、後ろを向いた。
ゴマン氏が、一匹の犬を連れている。
リーシュで繋がれているのは、赤茶色の毛に覆われた垂れ耳の小型犬。
「ココ……?」
久しぶりに口に出した、その名前。
「あなたのご家族に仕えていた方が、かくまって世話をしていたのよ」
チュイルリーを離れて以来、ココの行方も分からなかった。もう会えないだろうと諦めていた。
テレーズはすぐさま駆け寄った。
そばに行き、名前を呼んだ。
以前そうしていたように、身を屈め、その体に触れようとした。
しかし、ココの様子は以前と違った。
こちらが手を伸ばすと、ココは顔を背けた。知らない人間に触れられるのを嫌がるように。
名前を呼ぶと、束の間こちらを見るものの、すぐまた別の方を向いてしまう。
テレーズのことをテレーズだと認識していない。まるで、この場にいる人間のうちの一人としか思っていないような。
しゃがれた声のせいで、誰か分からないのだろうか。だが犬は匂いで相手を認識するはず。
まさかと思った。
「よかったわね、テレーズさん」
隣に来て、微笑みかけるルネット。
その笑顔が、テレーズには白々しいものに見える。
彼女は、テレーズのことをだましているのではあるまいか。ゴマン氏や、この場にいる看守たちとグルになって。
どうかしたの、と彼女は不思議そうに尋ねる。
「本当に、ココなの?」
「え?」
ルネットが驚いた顔をする。
「別の、犬に、見えるわ」
「そんなはずはありません」
ゴマン氏がすかさず否定するが、彼の言うことも嘘に聞こえる。
「だって、私のこと、知らないみたい」
「テレーズさん」
「偽物なら、要らない」
立ち上がり、塔の中に戻った。ルネットたちの呼び止める声は無視した。
あの地獄絵図、血の海と無数の遺体。
その中には、犬の亡骸もあった。人間と同じように、むごたらしい姿にされていた。
ココも、あの中にいたのだろうか。
最悪の考えが、頭から離れない。
翌日、テレーズはいつものように身支度をしたものの、何をするでもなく寝台に座った。
鉄格子の向こうは、今日も晴れている。
青空を見ると、昨日のことを思い出してしまいそうで、窓の方は見ないようにしていた。
昼頃、ルネットがやって来た。授業は休みにしたいと伝えていたのに。
彼女は寝台の近くに椅子を置き、腰を下ろした。
「授業はしないわ。その代わり、ココの話をしたいの」
昨日の犬は偽物でした、という話だろうか。
「あなたとご家族がチュイルリーを離れてから三年。それから昨日まで、ココに会っていなかったと聞いたけれど、その話に間違いはない?」
痛ましい出来事を、いちいち確認しないでほしい。そう文句を言いたい気持ちを抑え、間違いないと答えた。
「長寿をまっとうしたとしても、犬の一生は、人間の一生の半分にも満たない。人間にとっての三年間は、犬にとって、それ以上の年月ということにならないかしら」
どういうことか、問いただしたい気持ちでルネットを見つめた。
「ココをかくまっていた方から、改めて話を聞いたの。テレーズさん以外のご家族の誰とも、ココはずっと会っていなかったと」
それはつまり、
「ココは、私たちのことを、忘れたの?」
「そうかもしれないわ」
テレーズはうなだれた。
せっかくの再会は、ぬか喜びだった。
「でもテレーズさん、ココは決して偽物ではない、それは保証できるそうよ。それに、今は忘れていても、一緒に過ごすうちにあなたのことを思い出すかもしれないでしょう」
ルネットのことを疑いたくはない。
だが、あの犬がココだという確証はない。
ココのことをかくまっていた廷臣が、見た目が似ている別の犬を探してきて、ココだと偽っている可能性もある。
本物のココでないなら、会う必要などない。
それでも、
「…………考え、させて」
「ええ。気持ちの整理には時間がかかるでしょうから、焦ることはないわ」
家族の消息について、ゴマン氏にもルネットにも尋ねたが、教えてもらえていない。
本当に知らないのか、口止めされているのか。
こうなったら、自分の力でどうにかする。
塔からテレーズが姿を見せれば、何かしら外部との繋がりが出来て、家族に関する情報を得られるかもしれない。
ココは諦めざるを得なくても、テレーズには他の家族がいる。
【48. 生きる理由 前編】




