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47. タンプル塔の孤児

 テレーズの元に、一人の男性がやって来た。

 彼は、ゴマンと名乗った。

 看守ではなく、テレーズの身の回りの世話をするために来たという。


「何か必要なものがあれば、いつでも言ってください」


 ゴマン氏は礼儀正しい男性だった。

 部屋に入るときは、ちゃんと挨拶をする。品のないことも言わなければ、こちらを見下すような態度もとらない。マリー・カペーとも呼ばなかった。




 ゴマン氏が来てから日を置かずして、弟の近況が少し分かった。


 叔母が使っていた寝台。それを弟の寝台として使用するため、運び出すという。


 最後に会った時、弟は不潔な状態で寝かされていた。あれから何ヶ月も経つというのに、ずっと放置されていたのだろうか。


 弟に会いたい気持ちがいっそう強くなる。


 寝台が運び出される時、運搬する男たちやゴマン氏に、弟のことを尋ねようと思った。


 けれども、心が待ったをかけた。


 人と話すのが怖い。

 心を許しても、手の平を返されたら。せっかく改善した待遇がまた元に戻ってしまったら。

 考えると、声が出せなかった。





 何もなかった部屋に、少しずつ物が増えていった。ろうそくとマッチ、薪、筆記用具。


 パンとスープだけだった食事のメニューに、おかずやデザートが追加された。


 窓の掃除をしてもらった。鉄格子は外されないままだったが、蜘蛛の巣や(ほこり)が除去されたことで、室内は見違えるほど明るくなった。


「他に要望があれば、紙に書いてください」


 書くのをためらったものがある。

 家族と一緒だった頃は、母か叔母が、テレーズの代わりに要望を伝えてくれた。

 だが今は、自分一人しかいない。


 恥を忍んで、新しい下着が欲しい、と書いた。


 ゴマン氏は下劣な表情を浮かべることはなかった。

 翌日、自宅から家族の下着を持ってきてくれた。





 待遇が改善されてから数ヶ月のうちに、室内をあさられることはなくなった。

 ただそれでも、横柄な態度の役人や看守がいなくなったわけではない。


 夜中に突然扉が叩かれ、眠りが中断されることは何度もあった。訪問者の前では起立しろと、命じてくる者もいた。


 こうした男たちがいる中でも、ゴマン氏は変わらず親切だった。


 だからこそ、テレーズは決めた。彼には声をかけてみようと。



 彼が退室する時、呼び止めようとした。

 ところが、


「……っ」


 声が出ない。

 風邪で喉をやられたときのような痛みに、咳き込んだ。


 振り返ったゴマン氏が、慌てた様子でこちらに駆け寄る。


「大丈夫ですか」

「ぁ……っ、あ……っ」


 テレーズの口から出てくるのは、咳が混じったような声。


 ゴマン氏は驚いた顔をする。

 出会って以来、何ヶ月も言葉を発しなかった相手が、突然口を開いたからだろう。


「無理はいけません。待っていてください」


 ゴマン氏がポケットから取り出した紙と鉛筆。テレーズはそれを受け取り、こう書いて彼に見せた。


‘声が出せない。たぶん風邪ではない’


 それを読んだゴマン氏は表情を曇らせたが、また顔を上げた。


「無理をして声を出す必要はありません。何かあれば、呼び鈴を鳴らしてください」


 テレーズのことを安心させるように微笑んだ。




***




 クーデターによって権力の座に就いた者たちは、マリー・テレーズとルイ・シャルルに手を差し伸べた。

 そうすることで、血塗られた過去との決別をアピールした。


 忘れられていた姉弟に再び注目が集まり、二人は「タンプル塔の孤児」と呼ばれるようになった。


 人々の声は、このたびは同情的なものがほとんどだった。親がどれほどの悪人であったにせよ、子供に何の罪があったのだと。


 もっともルイ・シャルルにとって、救いの手は遅すぎるものだった。

 一七九五年六月、タンプル塔の一室でルイ・シャルルは静かに息を引き取った。

 兄ルイ・ジョセフの死から、六年と四日後のことだった。


 とはいえ、その死については、フランス国内のみならず、国外でも憶測が飛びかった。


 長らく幽閉されており、その最期を看取ったのはごく少数の人だけ。

 そのため、本人はひそかにタンプル塔を脱し、どこかでまだ生きているのではという噂が絶えなかった。


 今日(こんにち)では、本人は確かにタンプル塔で亡くなったとして、一応の結論は出ている。

 しかし作中は十八世紀。その真相が明らかにされるのは、遠い未来の話である。



 またこの悲劇の王子は、ルイ十六世の実子ではなく、マリー・アントワネットとフェルセンとの子供なのではないかという議論が、今日でもなお続いている。


 自分の弟が、まだ生きているかもしれない。

 けれどもその弟は、異父弟かもしれない。

 母親が、父親を裏切った結果できた子供かもしれない。

 こうした問題は、本作の主人公マリー・テレーズの人生に付いて回り、彼女を苦しめることとなるのだが、それもまた先の話である。



 作中の時点で、マリー・テレーズは、タンプル塔に幽閉されていた家族五人が、自分以外みな亡くなっていることさえ知らされていなかった。




【47. タンプル塔の孤児】


≪今さらな補足≫

 作中で名前が出てくる人は、史実の人物。

 ただし、名前だけ史実から借りたオリキャラのような人(人物像がほぼすべて創作)も少なくありません。



≪作者の私見≫

 バラスが来るまで、シャルルは何ヶ月も放置されていました(放置もれっきとした虐待)。

 では家族から隔離されて以後、暴力をふるわれていたのか。

 作者が思うに、その真偽については信ぴょう性の乏しい証言しかないと思います。

 実際にあったとしたら、シモンとその妻によるものだったのか、どういった暴力でどれくらいの頻度だったか等、実態を明らかにする手立てがあるでしょうか。


 ただし。

 断っておきたいのは、作者は虐待や暴力そのものを擁護したいのではありません。

 誰の証言が正しいか間違っているか、という話でもありません。


 歴史上の有名な出来事ほど、真相が明らかでないことを誰もが安易に決めてかかったり、憶測の域を出ないことが史実の話として広まるということです。


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