46. 国賊 後編
※看守の会話および主人公のモノローグが酷いので注意。またグロ描写注意。
叔母の消息を尋ねても、
「散歩に出ている」
「あとで話す」
「さあ、どうだかな」
看守から返ってくるのは、こんな言葉。
テレーズが途方に暮れると、男たちは卑しい笑みを浮かべた。
しばらくして、テレーズは諦めがついた。
何を尋ねても、どうせまともな答えは返ってこない。
もう誰とも口を利かない。どうしても返事をしなければならないときだけ、必要最低限の言葉で答える。
そう心に決めた。
一人になってからも、毎日の日課は欠かさなかった。
決まった時間に起床し、身づくろいを済ませる。
寝具を整え、部屋の掃除をする。
神に祈る。
運動不足にならないよう、毎日最低一時間は部屋の中を歩く。
体調が良くないときを除き、これらの習慣を守り続けた。夜中に叩き起こされ、部屋あさりに明け方まで付き合わされる日であろうと。
平民の男たちを前にして、だらしのない生活態度を見せたくなかった。
たとえ王族でなくなっても、フランス王女としての誇りが、そうさせたのだ。
食事の時間になると、食器の乗った盆が運ばれてくる。
一日三食、毎日同じメニュー。美味しくないパンと冷えたスープ。
食欲はあまりない。
けれども、これを食べないと次から食事抜きだと言われている。
叔母がここにいれば、テレーズをこう諭すのだろう。
『私たちよりも貧しい人々は、もっと少ない量しか食べることが出来ないのよ』
どんな貧民でも、今のテレーズより悲惨な目に遭っている人間はきっといない。
昼食が運ばれてくるついでに、朝食の食器が回収される。
普段なら、当番の看守はすぐ立ち去るが、この日は違った。
気の弱そうな顔をした青年が、食器を持ったまま扉の前で振り返り、じっとこちらを見る。
いやらしいことを考えているのだろうか。
無視を決め込むのが、テレーズにとって最善の方法だ。
「お……王女様は、強いお方だ」
緊張したように震えた声。
「このご時世に祈祷書なんて、俺には真似できない。だから、どうか信仰を捨てないでくれ」
それだけ言い、出ていった。
彼は、親切で勇気ある男性だ。
塔内には、そこらじゅうに監視の目がある。テレーズに同情を示し、それがばれようものなら、彼は何かしらの処罰を受けるはず。
危険を冒してまで、ああして励ましてくれた。
パリの人間が話す粗野な言葉は嫌いだが、今のように親切な人の言葉なら、話は別だ。
直接感謝を伝えられない代わりに、こう祈った。
(どうか彼が、私に優しい言葉をかけた廉で罰せられませんように)
昼食のメニューも、いつものパンとスープ。
だが今だけは、いつもより美味しいと思えた。
食事が終わると、あとは長い長い退屈な時間。
編み棒と毛糸はまだ手元にあるが、毛糸は繰り返し使いすぎてボロボロ。
祈祷書の他にも本が数冊あるが、何度も読み返して、さすがに飽きてしまった。
タンプル塔には千冊以上も蔵書があると、父が話していた。
読書家だった父は、ここに収容されてからも毎日読書をしていた。
何の本を読んでいたのか、尋ねたくても、父はもういない。
室内が暗くなってきた。
まだ日が落ちる時間ではない。曇ってきたようだ。
晴れているときは、蜘蛛の巣で覆われた鉄格子の窓から、わずかではあるが、日が差し込む。
しかし雨が降り出すと、読書も出来ないほど暗くなる。
ろうそくの供給は止まっている。
雷が鳴っても何とも思わない。耳をふさいで怯えていた頃のテレーズは、この世界のことを知らない、のん気な子供だった。
数多の暴力や大虐殺に比べれば、この世すべての人間の悪意に比べれば、雷なんてものは、ただの自然現象だ。
扉の向こうから聞こえる雑音が、テレーズの鼓膜を通して、脳をいたぶる。
「ヴェルサイユにいた王女を犯すなんて、普通に生きてちゃ考えらんねえよ。しかも、あの淫乱王妃の娘だから、誰が相手でも自分から股開くだろ」
「それくらいのご褒美でもなきゃ、罪人の監視なんてわりに合わないよな。こちとら食っていくのがやっとなんだから」
痛くなるほど耳を強くふさいでも、完全な無音にはならない。
「あんな女、俺は犯すのもごめんだ」
「てめえ、なに一人だけ善良ぶってんだよ」
「善良?」
「親切な男を気取って王女に近づいて、そのまま手込めにするつもりか」
「勘違いするな。あんな害虫女、触りたくもない」
どうやったら、聴覚を失えるのだろう。
「なんなら、俺らが王女を押さえつけててやる。そうすれば、お前は突っ込むだけでいい」
「お断りだ。あと、お前らのイチモツを害虫女に突っ込む前に、子供を産めなくするのが先だろ。ガキが出来たら困る」
「ははっ、なるほどな」
「確かにそのとおりだ」
耳を削ぎ取る。
どうやって。耳を思いきり引っ張り、鋭い刃物を差し込む。
無理だ。刃物はおろか針の一本さえない。
(今のフランスは、神亡き国)
王権とともに、神の教えを闇に葬り去った。
だから男たちは、あんな下劣なことを面白おかしく話しているのだ。
テレーズの体は狙われている。このままでは、いずれ慰み者にされる。
辱めを受ける前に、何かしら手を打たなければ。
どんな酷いことをされても、体を押さえつけられても、突っ込まれても、一切苦痛を感じない。不快な感情も起こらない。
どうすれば、そうした体になれるか。
テレーズは考えに考えた。
だが、何ひとつ行動に移せない。
神の教えを破り、自ら命を絶つ勇気はなかった。
しばらくして、男たちの雑音は止んだ。
テレーズの意識は、自殺する方法から、また別のことに向いた。
虐殺の場面がよみがえる。
うめき声、耳をつんざくような絶叫。
床、壁、窓、あらゆる家具や調度品、すべてが血に染まる。
あり得ない向きに曲がった腕や脚。
体から飛び出た臓器。
遺体が発する悪臭。
死ぬ間際に犯された女性の亡骸。
槍の先に突き刺さっているのは、自分のよく知る相手の生首。
(パリは、血の都)
この五年間で、テレーズ自身も血の都に毒されてしまったようだ。
まだチュイルリーにいた頃、虐殺の場面を思い出しては、たびたび悪夢にうなされた。
もちろん今でも、思い出すたび嫌な気持ちになる。だが以前ほど苦しむことはなくなった。
数多くの凄惨な場面を目にしすぎて、慣れてしまったのだ。
地獄絵図の悪夢にうなされることはない。
その代わり、今では毎晩のように思う。
(朝なんて来なければいいのに)
眠りに落ちたまま、永遠の眠りに就きたいと。
それなのに、どれだけ願ったところで、憎たらしくも朝は必ずやって来る。
終わりの見えない日々の中で、ふと思った。
テレーズたち家族が、生きたままタンプル塔に収容されたのは、よくよく考えれば不自然だと。
あれだけ憎悪の的になっていたにもかかわらず、母が虐殺の犠牲になることはなかった。
父が暗殺者の手にかかることもなかった。
奇跡的に殺されなかった。
いいや、違う。
暗殺という卑劣な手段が用いられなかった。
それも違う。
辱めを与える目的で、あえて生かされていたのではないだろうか。
***
世界一美しいと称えられた宮殿で生まれた、マリー・テレーズとルイ・シャルル。
二人の遺児は今や、抹殺された王政の残りかす、負の遺産だった。
『あの二人は敵国女の子供。我が国の恥』
この当時、フランスの子供たちは、大人からこう教えられた。
もっとも、同時代の多くの人々にとって、タンプル塔に幽閉された元王族の存在は、とりたてて重要な事柄ではなかった。
折しも恐怖政治の時代であった。
やがて、ギロチンを粛清の道具として大いに利用していた指導者たちは、そのギロチンによって亡き者にされた。
王妹エリザベートの処刑から三ヶ月経たずして、クーデターにより恐怖政治は終わった。
■■■
夏のある日。
早朝、警鐘と太鼓の音で、テレーズは眠りから叩き起こされた。
すぐに起きて、身づくろいを済ませる。
その間にも、外の騒々しさは止まない。武器を取れという男たちの声、階段を行き来する忙しない足音。
しばらくすると、予想どおり、テレーズの元に人が来た。
だが、それは思いもよらない形だった。
扉越しに聞こえたのは、ちゃんとしたノック音。荒々しく叩く音ではない。
「入ってもよろしいですか」
脅しつけるような声ではない、丁寧な物言いに、テレーズの驚きは倍になる。
それでも心を落ち着かせながら、扉を開けた。
入ってきたのは、いかめしい雰囲気の男が数人。
テレーズの方に向き直った彼ら。その中の一人が口を開いた。
「あなたが、マダム・ロワイヤルでいらっしゃいますね」
テレーズは本当に言葉を失った。
一体いつぶりだろう、この称号で呼ばれるのは。
こちらが返事をしないでいても、彼らは機嫌を損ねる様子を見せない。
「名乗るのが遅れました。私は――」
バラスと自ら名乗った男は、いくつかの質問をした。
テレーズは答えず、沈黙を貫いた。
だが本当は、問いただしたかった。
昨日までの男たちと、今目の前にいる彼らは、明らかに違う。
ひょっとしたら、母や叔母のことを、彼らは知っているかもしれない。
それに弟のことも。
つい先ほど、すぐ下の階で扉の開く音がした。彼らは弟に会ってから、テレーズの元へ来たに違いない。
尋ねたい。何が起こっているのか。
そう思っても、喉まで出かかった言葉は、唇を噛むことで飲み込んだ。
【46. 国賊 後編】




