50. 生きる理由 後編
※主人公のモノローグが酷いので注意。
自殺が失敗してから、テレーズは冷静になって考えた。
弟までもが亡くなった今、自分がタンプル塔にいる意味はない。一日でも早く、こんな場所から出ていきたい。
だが問題行動を起こせば、出られる可能性がさらに無くなってしまう。
ならば従順さを装って「良い子」でいる。
そう考え直し、自ら命を絶つことを諦めた。
元より、このたびの一件で思い知った。自分の命を自分で終わらせることは難しいのだと。
体調が回復した後、これまでの生活リズムを取り戻した。
ルネットの授業も再開した。
「三色旗の青、白、赤は、それぞれに意味がある。青は自由、白は平等、赤は友愛」
テレーズは、指示された文章を読み上げている。
感情を殺して平静を装っている。本当は、内容に異議を唱えたくて仕方がない。テキストを破り捨ててしまいたい。
だがそんなことはしない。子供の頃から培ってきた忍耐力は健在している。
(白は平等だなんて、いかにも革命家が言いそうなことだわ)
ブルボン王家の象徴だった色。それに平等という意味をあてがうのだから。
また他にも、
(なにが友愛よ。血の色の間違いでしょう)
友愛とは、自分たちが同胞だと認めている相手に対する仲間意識のことだ。
テレーズから言わせれば、この国の人間は、殺戮を繰り返してきた野蛮人。
そんな連中の同胞呼ばわりされるなど、こちらから願い下げだ。
(虐殺と生首から生まれた国)
心の中でこう思っても、決して口には出さない。
秋になる頃、懐かしい人々との対面が叶った。
タンプル塔にやって来たのは、三人の女性。母に仕えていた女官と、テレーズに仕えていた女官、そして養育係。
みな最後に見た時から変わっておらず、元気そうだ。
彼女たちを迎え入れると、いつもの部屋が狭く感じられた。
テレーズとルネットと女官たち。この空間に女性ばかり五人というのも、何やら不思議な光景だ。
テレーズが話し始めると、女官たちはにわかに顔を曇らせ、その声はどうしたのだと問うた。
しゃがれた声になった理由は、テレーズ自身にも分からない。何ヶ月も声を出していなかったから、タンプル塔の空気が悪かったから。原因ははっきりしない。
ひとまず、風邪ではない、喉は痛くないとテレーズから説明した。
ところが女官たちは納得せず、ここで非道な扱いを受けたせいだと文句を言い始めた。
文句を言いたい気持ちは、もちろんテレーズも同じだ。それでも、女官たちをなだめる役に回った。
角が立つ言動をして、それを看守に聞かれたら、面会を中断させられるかもしれない。
そう説明すれば、文句は止んだ。
「この夏から、シャントレンヌ夫人と発声練習をしているの。おかげで、だいぶ声が出せるようになったのよ。だから、そのうち元の声に戻るわ」
ルネットと女官たち、それぞれを紹介した。
彼女たちは互いに挨拶を交わすが、ルネットは身の置き所がなさそうにしており、女官たちは三人とも不機嫌さを隠していない。
ともあれ、テレーズは改めて、女官たちに向き直った。
家族が生前、ここでどう過ごしていたか。その話を始めると、テレーズは涙を抑えられなくなる。
涙をこぼしたのは、女官たちも同じだった。
また彼女たちから、亡命中のブルボン王家に仕えている人々の近況を聞いた。
ユー男爵の他にも、無事な人は少なからずいる。その一方で、亡命先で亡くなった人や、今もって消息不明な人もいるという。
「ところでマダム・ロワイヤル、ご家族の消息を、シャントレンヌ夫人から直接お聞きになったそうですね」
母に仕えていた女官の言うことに、そうだとテレーズは答えた。
すると女官の視線が、部屋の隅へと向けられた。ルネットがいる方へと。
ルネットは歓談の輪に入らず、黙って椅子に座っていた。
「マダム・ロワイヤルにお話し申し上げたのは、シャントレンヌ夫人、あなたの独断。そればかりか、事実を知って嘆かれたマダム・ロワイヤルは、三日三晩お食事が喉を通らず、寝込まれてしまったそうではありませんか」
ルネットへの嫌み。おまけに今の言葉の後半は、誰を通じて知ったことなのか誤解がある。
「ルネットを悪く言わないで。私のことを思って、本当の話をしてくれたのよ」
テレーズが仲裁に入ると、今度は別の声が。
「お相手役に選ばれたとはいえ、シャントレンヌ夫人は、元々ブルボン王家と縁もゆかりもない女性。十二分に出過ぎた振る舞いです」
テレーズに仕えていた女官までもが、嫌みに加勢する。
場が険悪な空気になる中、
「私は、おいとまします」
ルネットが口を開いた。
「皆様がたで、ごゆっくりご歓談ください」
彼女は椅子から立ち上がると、自分の荷物を手にして、テレーズの前まで来た。
暗い表情で、
「では、また明日」
とだけ言って部屋を出ていく。
テレーズが呼び止めても、彼女は立ち止まらなかった。
大切な人のことを守れなかった。かばいきれなかった。もどかしさと悔しさが、テレーズの胸に入り混じる。
閉まった扉を見つめていると、養育係に名前を呼ばれた。
「あなた様がどれだけ高貴なお方であるか、理解していない。それが市民女というもの。あのような方のことなど放っておけばいいのです」
他二人と同様、養育係も嫌みを言う。
今の発言に、テレーズははたと思った。
最後の一言に聞き覚えがある。以前にも、養育係から同じことを言われた。
自分でも驚くほど、記憶はすぐ呼び起こされた。
チュイルリーにいた頃、体調を崩した父を見舞いに行こうとしたが、養育係に阻まれた。養育係は厚かましくも、テレーズのことをにらみ付け、冷たく言い放った。
あのような方のことなど放っておけばいいのです、と。
思い出したのは、それだけではない。
記憶の奥底に眠っていたこと、タンプル塔にいる間に忘れていたことが、せきを切ったように脳裏を駆けめぐった。
今目の前にいる女官たち。いいや、この三人だけではない。
テレーズたち家族の身近にいた女官たちは、みな卑しむべき敵も同然。
父と母の仲ばかりか、父と子供たちの仲をも引き裂こうとした、魔女だった。
「いかがされました、テレーズ様」
養育係が尋ねる。突然黙り込んだテレーズに、他の女官二人も不思議そうな顔をする。
「……いいえ、何でもないわ」
テレーズは込み上げる怒りを押し殺し、どうにかして笑顔を作った。
チュイルリーで魔女たちがのさばり返っていたのは、三年以上も前のこと。
父が処刑されたことで、この魔女たちは、多少なりとも己の振る舞いを反省しただろうか。
そのことを確かめるべく、テレーズは試しに、チュイルリーにいた頃のことを話題に出した。
自分はあえて多くを語らず、目の前にいる三人が思い思いに話すことに、耳を傾けた。
話が進んでも、彼女たちの口から出てくるのは、母か弟か叔母のことばかり。
誰も、父のことを話題に出さない。
そこで、
「私はチュイルリーにいた頃も、家族と引き離されて、つらかったわ」
「まあ何故、アントワネット様やシャルル様、エリザベート様がいらしたのに」
養育係が聞き返す。
「お父様に会いに行こうとしたけれど、あなたに阻まれてしまったから」
途端、表情を硬くする養育係。
「酷い女官は、他にもいたわ。誰も彼も毎日のように、お父様の悪口を私に聞かせてきて。そういうことは私のいないところで話してと頼んだけれど、言うことを聞いた女官がいたかしら」
他二人の顔にも、動揺が浮かぶ。
しばし場は静まり返ったが、ふっと笑みを浮かべた養育係が沈黙を破った。
「そのようなことがあったでしょうか。あいにく、あの頃はさまざまな不幸があったせいで、記憶にございません」
白を切る養育係に、他二人も同調する。
そして会話が再開された。父のことには、一切言及されない会話が。
テレーズは確信した。
魔女は魔女のまま、やはり何も変わっていないのだと。
父が処刑される前夜、家族全員があんなにも嘆き悲しんだ。その話は、面会が始まった最初の方で、テレーズから教えていた。
この魔女たちにとっては、取るに足らない、どうでもいい話でしかなかったようだ。
おまけに彼女たちは、悪びれる様子もなく言う。
今のフランス王、自分たちの君主は、プロヴァンス伯なのだと。
テレーズは忘れていない。
あの叔父がどんな男であったか。サン・クルーで見せた本性を、今でもはっきりと覚えている。
今目の前にいる魔女たち、そして悪運強く生き長らえた者たち。
彼らに対する憎悪がわき起こる。あまりの不快な記憶の数々に、頭をかきむしりたくなる。
だがそれでも、忍耐という忍耐をふりしぼった。
作り笑顔と上辺だけの態度で、死ぬほど苦痛な時間をどうにか耐え抜いた。
面会が終わった後。
一人になった部屋で、テレーズは一通の手紙を開封した。これは、つい先ほど渡されたもの。
『今やあなた様のお父上様になったお方から、託されたお手紙でございます』
養育係がいけしゃあしゃあと、こんなことを言いながら差し出した。
その文面はこう始まっていた。
‘愛する我が姪へ’
何も考えずに読めば、姪への哀れみと愛情に満ちた手紙。
だがテレーズには分かる。これが虚言を並べたものであると。
結びにある署名には「LOUIS」とだけつづられている。あの男の本名ルイ・スタニスラス・グザヴィエとは書かれていない。
いつだったか、父から聞いたことがある。君主が署名するとき、全名は記さないのだと。
手紙の差出人は、ルイ十八世を名乗る、あの憎き叔父だ。
【50. 生きる理由 後編】




