43. マリー・アントワネットの胸中
マリー・アントワネットは思う。夫ルイ十六世について、多くの人は誤解をしていると。
しかしながら、それは夫自身にも原因がある。
自身の弟妹や仕える者たちにさえ嘲笑され、見下げられる。
それは本人が、あまりにも見てくれを気にしないせい。
当の夫には、どうにかしようとする意欲が見られない。というより、本人は開き直っている様子だった。
ならば、その意欲のなさは、政務や家庭生活に対しても同じなのかというと、これもまた人々が口にすることと現実は違っている。
あれは、今から十年以上前のこと。
アントワネットは、夫の執務室に赴いた。
夫は大臣の一人と話をしていたが、大臣との話は中断させた。王妃の話が優先だ。
『お兄様を助けてほしいの。あなたはヨーゼフ二世の義弟でしょう。オーストリアのために、戦争に協力して』
こちらが説得している間、夫は何度か口を挟みたそうにするが反論はしない。
アントワネットは、ひとまず言いたいことを伝えた。
夫の返事は、
『この問題に、君は口を挟み過ぎだ』
『どうしてよ。アメリカ植民地のことは助けるのに、私のお兄様を助けないなんて、おかしいわ』
『王のすることに王妃が口を挟む方が、フランスではよっぽどおかしい』
『なんですって!』
『とにかく、女には関係のないことだ。出て行ってくれ』
両肩に夫の手が乗せられ、そのまま扉まで押し戻される。アントワネットは負けじと抵抗するが、夫に力で敵うわけがない。
扉が閉められる間際、部屋にいた大臣と目が合った。
大臣は目を丸くしていた。温厚なことで知られる王の見せた姿に驚いたのだろう。
自分たち夫婦にとって、こうしたやり取りは珍しいものではなかった。
装飾品の購入や女官の人事については、好きにしていい、の一言。
だが政治とりわけ外交問題となると、話は別。
王妃がいくら意見しようと、国の政治の中枢に女を決して立ち入らせない。
それがルイ十六世という君主だった。
あれは、夫が即位して間もない頃。
ルイ十五世の治世晩年に失脚していたショワズールが、晴れて宮廷に復帰した。
彼は仏墺同盟の成立に貢献した人物。すなわちオーストリアにとっての恩人。彼のことを救うため、アントワネットは夫に口添えをした。
それが功を奏して彼が戻ってきたのだから、恩人を救ったアントワネットは鼻高々だった。
ところが、久しぶりにヴェルサイユ宮殿へやって来た彼に対し、夫は面と向かってこう言った。
『ずいぶんと寂しい頭になったのだな』
しばらく見ない間に、後退したショワズールの生え際。アントワネットも一目見た時から気づいていたが、黙っていようと思っていたのに。
こののち、ショワズールは宮廷への出入りこそ許されたが、国政への復帰は叶わなかった。
復帰を阻んだのは、他でもない夫だった。
あれは、まだ夫が即位する前。
『左官職人の仕事にご興味がおありなんて、王太子殿下は変わったお方だこと』
『この前なんて、畑仕事に混じられていたわ。シャベルを手にされて、お手もお召し物も泥だらけにして』
『あのようなお方が未来のフランス王というのも、どうなのかしらね』
本人がいないところで、女官たちはよく夫のことを揶揄していた。
それなのに、王太子ルイ・オーギュストの御前では、誰もがうやうやしい女官や臣下の仮面を付けて「卑しい僕」を演じる。
(みんな猫かぶりだわ)
誰もが嘘吐きで、隠し事をしている。
そんな大人にはなりたくないと、アントワネットは思っていたのだ。
…………。
夫が処刑されることを知った、その日の晩、今年初めて家族五人がそろった。
面会の場所は、食堂として使っている部屋。
五人でテーブルを囲う。
夫の膝の上にシャルルが座り、他四人はそれぞれが椅子に座った。
この部屋には家族しかいないが、ガラス付き扉の向こうに、従僕と看守がいる。
裁判の結果について話し始める夫。
もう覚悟は出来ているのか、みなが涙を流す中、本人はいたって落ち着いた様子だ。
「死刑に賛成票を入れた者たち、また今まで私たちを苦しめた者たち。彼らのことを恨まないでほしい。これは、私からお前たち全員への願いだ」
夫は、遺される家族全員に願いを託した。
それから、妻のことを呼んだ。
「子供たちを誠実なキリスト教徒に、そして正直な人間に育ててくれ」
アントワネットは返事をしようにも、嗚咽まじりの声しか出せない。
続けて、夫は子供たちそれぞれの名前を呼ぶ。
「テレーズ、十四歳になる日を一緒に過ごせなかったことを、許してくれ」
「お父、様……」
「シャルルは、再来月で八歳だな」
「父上……」
「これからは、お前がいくつになっても、誕生日を一緒に過ごすことは出来ない。許してくれ」
夫と子供たちの様子が、アントワネットにはよく見えない。
涙をぬぐい、束の間視界がはっきりする。
その時、目にした光景に息をのんだ。
シャルルが体の向きを変え、夫の首に腕を回す。
さらには、椅子から立ち上がったテレーズも、同じように。
夫が子供たちを抱きしめ返すと、子供たちのむせび泣く声が大きくなった。
父子三人の姿は、いつしか忘れていたことを、アントワネットに思い出させた。
(この子たちにとっては、この人が父親なんだわ)
チュイルリーに連れ戻されて以後、シャルルは父親に対して他人行儀になる一方で、テレーズはまた違った。
自分の部屋にこもり、食事も一人でとると言い出した。時おり部屋から出てくることがあっても、家族の誰とも口を利かなくなった。
テレーズのそうした行動は、ヴァレンヌで捕縛されたショックやエルネスティーヌ恋しさが原因に違いない。すべては夫の責任だと。
養育係や女官たち、エリザベートは考えていたようだ。
アントワネットは気づいていた。テレーズが周りから距離を置こうとするのは、それだけが原因ではないことを。
母親より父親に懐いていたうえ、母親の婚外恋愛に反発していた。そんなテレーズなりの、大人たちに対する静かな抗議なのだと。
我が子のそうした変化に気づいていながら、アントワネットは見て見ぬふりをしていた。
王朝ばかりか、家族の関係までもが今まさに崩壊しようとしている事態にまで、対処する気力は持てなかった。
あらゆる苦悩に疲れ果てていた。
さらには、最愛の男性と会える望みも絶たれていたから。
それなのに、なんという皮肉か。
タンプル塔に収容され、従僕一人を除いて家族五人だけとなった今、絆は修復された。
現にシャルルは、父親に対する親しみを再び示すようになった。
夫が隔離される前、夫とシャルルは、同じ階で寝ていた。寝る前の二人が親しげに過ごす様子を、従僕から話に聞くことが出来た。
今もそうだ。
チュイルリーにいた頃のシャルルだったら、自ら父親に抱きつくことはしなかっただろう。
別れに涙する子供たちへ、夫は伝えた。
絶対に復讐はしないと神に誓うこと。そして、子供たちに神の加護があらんことをと。
それから、夫はエリザベートを呼んだ。
「お前には苦労ばかりかけてきたな」
「お兄、様……」
エリザベートも、先ほどからすすり泣いている。
「だが、これが最後の頼みだ。テレーズとシャルルのことを、どうかよろしく頼む。お前はこの子たちの第二の母だ」
チュイルリーにいた頃、エリザベートのとげとげしい態度は、アントワネットでさえ手に負えないほどだった。
ところが、ある日を境にして、そうした態度は収まった。夫本人がいる場所は元より、いない場所であろうと、エリザベートは悪感情を表に出さなくなった。
そのきっかけとなったのは、グスタフ三世の訃報を子供たちに伝えた時の出来事。
テレーズが家族の前で尋ねた。娘が生まれてがっかりしたかと。夫の答えたことに、テレーズは感極まって泣き出した。
父親が無力なばかりにこんな酷い目に遭っていることを、テレーズも分かっていたはず。
それでもなお父親を慕う気持ちを忘れていないのだと、痛感した一幕だった。
『お義姉様とお兄様に万一のことがあったら、私がテレーズとシャルルの母親代わりになります。だから、もうあの子たちを不安な気持ちにはさせません』
後日エリザベートが、アントワネットに打ち明けたことだ。
さりとてエリザベートにしろ、養育係をはじめ、どの女官にしろ、夫に対する言動は単なる悪意によるものではなかった。
そのことは、アントワネットも理解している。
「さて、そろそろ面会が終わる時間だ」
告げられたのは、残酷な一言。
夫が席を立つ。
アントワネットも立ち上がったが、不意に視界がかすんだ。
全身の力が抜け、意識が遠のく。
背中を支えられる。トワネット、と呼ぶ声。
母上。
お母様。
お義姉様、お気を確かに。
家族の声で意識が引き戻される。
気を失って倒れる間際、夫に抱き止められたようだ。
トワネットという名で呼ばれたのは、いつぶりだろう。
心配そうに、こちらを見つめる夫。その顔は疲れ果てた老人のもの。
それは妻の方も同じ。疲れ果てた老婆であることに変わりない。
(明日の今頃には、もうこの人はいない)
そして、次は間違いなく、自分の番。
このまま、また気を失ってしまいそうだ。
しかし今倒れてしまってはいけないと、気力を奮い立たせた。
「こんや、だけでも……」
「何だ?」
「今夜だけでも、みんなで一緒に過ごしましょう」
ややあって夫は答えた。
「あいにくだが、今夜は心の平穏が必要だ」
願いは聞き入れられなかった。
一人で過ごす時間を、静かで安らかだと思う王、退屈で孤独だと思う王妃。それが自分たち夫婦だった。
「なら明日、ここを出る前に……」
「分かった。朝八時に会おう」
「七時では、だめなの?」
夫は考える様子を見せてから、七時にしよう、と答えた。
■■■
翌朝。
テレーズたちはいつもより早く起きて、父を待っていた。
約束の七時をだいぶ過ぎた頃、すぐ下の階から、扉の開く音がした。
階段を上がる音はせず、足音は遠ざかる。
外が騒々しくなった。
太鼓とトランペット、馬のひづめの音、行進する足音。
塔内に人が出入りするだけなら、こうもけたたましい音はしない。
何も言われずとも、分かった。
これから、父が処刑場に連行されるのだと。
「父上!」
母に抱きしめられていた弟が、腕の中から飛び出した。
部屋から出ていこうとするも、看守に阻まれる。
「ここから出して! 父上をころさないでって、たのみに行くんだ!」
腕を振り回して抵抗する弟。
その姿に、テレーズは涙が止まらなくなった。
やがて弟は出ていくことを諦め、声をあげて泣き始めた。
(お父様は、私たちのご先祖様と同じ場所に行くんだわ)
テレーズたちは、そう信じている。
父は市民ルイ・カペーとして死ぬのではない。
王として崩御する。
ルイ十六世は、殉教するのだ。
昼頃、父の死が役人から伝えられた。群衆に罵倒される中、ギロチンにかけられたのだと。
その報告を聞かされても、テレーズたちはもう泣かなかった。
母は、弟の方へと向き直る。
身を屈め、おごそかに言った。
「国王崩御、国王万歳」
再び立ち上がった母とともに、テレーズと叔母も深々とお辞儀をする。
弟はもう王太子ルイ・シャルルではない。フランス王ルイ十七世だ。
母は、喪服を着たいと願い出た。
数日後にその許可は下り、遺族四人と従僕に粗末な喪服が渡された。
テレーズたちは平服から、それに着替えた。
その後、唯一仕えていた従僕までもが立ち退きを命じられた。
今やテレーズたちは、身の回りのことを自分たちでしなければならなかった。
代わり映えしない牢獄での暮らし。
四人一緒にいられることだけが、救いだった。
父の死から半年後、国民公会の使者がやって来て、前触れなく告げた。
シャルルを家族から引き離すと。
さすがの母も、この時ばかりは取り乱し、代わりに自分が行くと懇願した。
すると使者は怒鳴った。ならば息子を殺す、と。
しばらく押し問答が続いたが、結局こちらが折れるしかなかった。
使者が急き立てる中、叔母が弟の支度をする。
その間、テレーズは泣き崩れている母に寄り添った。
弟が連れて行かれる時、
「大丈夫よ、シャルル」
目に涙を浮かべる弟を、テレーズは力いっぱい抱きしめた。
大丈夫なことは何ひとつない。だが他に言葉が思い浮かばなかった。
弟との別れから一ヶ月後。
母が裁判にかけられるため、別の牢獄へ移されることになった。
今度はテレーズが取り乱す番だったが、母は動じなかった。こうなることを、すでに分かっていたかのように。
「エリザベート叔母様を第二の母だと思いなさい。お父様も言っていたことよ」
「お、かあ、さま……」
「勇気を持って」
娘の頬を包み込む両手。母が顔を近づけ、互いの額が触れ合う。
「愛してるわ。私の愛しい子」
母の顔が涙で見えないが、声で分かった。母もまた泣きそうなのだと。
【43. マリー・アントワネットの胸中】




