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39. ずっと言えなかったこと

 テレーズたちは道中で正体がばれ、チュイルリーに連れ戻された。


 それからすぐ関係者の事情聴取が行われた。

 もっとも、それは直接話を聞ける相手に限ってのこと。

 途中で一行から離れたフェルセン、同日夜にパリから脱していたプロヴァンス伯と伯妃は対象外。

 またテレーズと弟も、子供だからと除外された。





 テレーズの寝所に人が来た。

 天蓋のカーテン越しに母の声がする。テレーズは掛け布団を頭から被り、寝たふりをした。

 カーテンを引く音。掛け布団の上に乗せられた手。


「朝から何も食べてないと聞いたから、あなたの大好物を持ってきたわよ」


 確かに空腹だった。テレーズの気持ちをよそに、体は食べ物を欲している。


 自分の体がつくづく恨めしい。


 観念して、掛け布団から顔を出した。

 まだ外は明るい時間。寝所のカーテンは閉めきっているが、隙間から差し込む陽で、母の姿が見えてしまう。


 母のことを直視できず、テレーズは目をそらした。


 近くのテーブルに目が留まった。切り分けられたリンゴが皿に乗っている。


 テレーズは体を起こし、フォークにささったひと切れを母から受け取った。

 噛んだ瞬間、口に広がったみずみずしい甘さ。


 母は、寝台のそばに置かれた椅子に座った。


「あなたの体調のことを考えれば、これで良かったのかもしれないわ」


 良いわけがない。母の言葉は、子供でも嘘だと分かる。

 大好物の甘さが、苦みに変わる。


「馬車で何日もかかる距離だったもの。その間ずっと座ったままなのは、あなたがきつかったでしょうから」


 母の髪は真っ白。髪粉をふるった色ではない。

 顔、首筋、手は皺だらけで、まるで老婆の姿。

 今テレーズの目の前にいる女性を見て、一目でマリー・アントワネットだと分かる人が、この世にいるのだろうか。


「ティニにも教えてあげたいわ。テレーズも大人の女性の仲間入りをしたって」


 母は独り言のように続ける。変わり果てた姿になっても、以前と変わらない声。


 テレーズは口を結び、うつむく。ひと切れの半分ほど食べたリンゴを見つめながら、気まずい思いに耐えた。


「私が馬車に乗ろうとした時、あなたが言ったことだけど」


 母の言葉に、テレーズはすぐ顔を上げた。

 そこにあるのは、皺だらけの微笑み。


「今、話を聞くわよ」


 母が話す機会をくれた。今まで溜めに溜め込んできた思いを打ち明ける、またとない機会を。


 だが今のチュイルリーは、これまで以上に厳重な監視下にある。この部屋にしても、扉の向こうでスパイが聞き耳を立てているかもしれない。

 そんな状況下で、テレーズからフェルセンのことを尋ねようものなら、立場が悪くなるのは他でもない母だ。


 恐ろしいことは、他にもある。

 テレーズが言いたいことを口にしたら、母からどんな言葉が返ってくるのだろう。


 父にはもう愛想を尽かした。王妃という立場上、仕方なく一緒にいるが、本当は別れたい。

 そもそも父のことは最初から好きでも何でもなかった。結婚したのは政治の都合、ウィーンの祖母に命じられたから。


 本当に愛している男性は、フェルセンなのだと。


 そんな話を聞かされようものなら、テレーズは本当に母のことを嫌いになる。

 親子の関係が終わってしまう。


 テレーズはまた下を向いた。母のことを見ていると、心の中を見透かされそうだ。


「お母様の時は、どうでしたか」

「何が?」

「お母様が、大人の体になった時。その時のことを知りたいです」


 尋ねたいのは、こんなことではない。


 母の視線を感じる。こちらの質問を不思議に思っているのだろう。

 それでも母は聞き返すことをせず、自分自身のことを話し始めた。


「私のお母様は、それは大喜びだったわ。私の嫁ぎ先はすでに決まっていたから、私がお嫁に行ける体になるのを、お母様は心待ちにしていたの。ただ当時の私はまだ見た目が子供で、フランスに来たばかりの頃は『本当に十四歳なの?』『十歳に見える』『オーストリアは子供を送り込んできた』なんて陰で言われたわ」


 遠い昔を懐かしむように、母は語る。テレーズが生まれる何年も前のことを。


「フランスという国に嫁ぐことは大変名誉なこと。アントニアは姉妹の中で一番恵まれているって、お母様やヨーゼフお兄様から言われたわ」


 でも、と母は続ける。


「本音を言うと、私は寂しかった。家族とも、生まれ育ったウィーンとも、お別れをしなくてはいけない。そして二度と戻ってくることはない。それが他国に嫁ぐことだと、教えられていたから」


 私がウィーンを離れる日には、弟が泣き止まなくてね……と母は語るが、その内容はもうテレーズの耳に入ってこない。


 聞いたことのある話では、テレーズが生まれる前に、母とフェルセンは出会っていたという。


 ひょっとしたら、テレーズの体に流れている血の半分は、あの男のものかもしれない。


 もしも、そうだとしたら。


 テレーズは、フランス王女ではない。

 フランス人でさえない。

 命が宿った瞬間から、偽物の王女だった。


 現に暴徒がわめいていた。

 テレーズや弟は、クソデブのルイの子ではない、愛人の子だと。


 本当のところはどうなのか、母なら知っている。今すぐにでも尋ねることが出来る。


 だが、テレーズにそんな勇気はない。

 それくらいの勇気を持ち合わせていれば、周りの大人たちに対して言いたいことを、ずっと溜め込んでこなかった。


「リンゴはもう食べない?」


 涙がこみ上げて、返事が出来ない。

 無言でうなづけば、母がテレーズの手からフォークを取った。


「あなたまで、泣き虫さんね」


 母の手が、娘の頭を撫でる。


 ヴァレンヌで自分たちの正体がばれ、パリまで連れ戻された。

 あの地獄の道中を同じように経験したにもかかわらず、テレーズの外見は出発前と変わっていない。


 それなのに、母は何故こうも優しい手つきで、娘の髪に触れるのだろう。


 母は一度でも、テレーズのことを嫌いになったり、憎んだりしたことはないのだろうか。

 老婆のような姿になった自分を尻目に、若い姿のままの娘。そんなテレーズのことを、気に食わない存在だとは思わないのだろうか。


(ジョゼフじゃなくて、私が死んでいれば……)


 狂女がわめいていた言葉が、脳裏をよぎる。


 ムードンで息を引き取ったのが、弟ではなくテレーズだったら、フェルセンはきっと喜んだ。逢引を助けていた女官たちも、喜んだに違いない。

 邪魔者の王女がいなくなったのだから。


 それだけではない。


 テレーズとジョゼフの命を天秤にかけたら、父も母も、ジョゼフを選ぶはずだ。

 女子では世継ぎになれない。シャルルはまだ幼すぎる。

 テレーズではなくジョゼフが生きていれば、と。




【39. ずっと言えなかったこと】


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