38. わがまま
「ティニは今朝早く、体調を崩してしまったの。お医者さんの所に行っているから、良くなったらまた会えるわ」
母からこう言われた時、テレーズは親友のことを案じる以前に、話の内容そのものを疑った。
昨日まで、親友は元気だった。
仮にも急病で、侍医では手に負えないほどの症状だとしても、普通なら往診を頼むはずだ。
不審に思ったことは、それだけではない。
父と母、叔母、養育係をはじめとする女官たち。みなが、どことなくソワソワしていた。
例外は弟。大人たちの話を疑う様子はなく、親友の心配をしていた。
テレーズは不安でたまらなくなった。
親友が正式な家族の一員になって以来、どんな惨事に見舞われた日でも、自分たちはずっと一緒だった。
朝起きた時から親友がいないという状況は、初めてだ。
この日の夕方。
母が、テレーズと弟を散歩に誘った。
外はまだ昼間のように明るい。そういえば、今日は夏至だ。
「ティニ姉上のおみまいに行くのですか?」
弟が母に尋ねる。
親友がパリのどこかにいて、これから会えるかもしれないと、テレーズも少し期待していた。
あとで話すわ、と母は答えた。
馬車に乗って着いた先は、閑静な庭園。
人の姿はあまりなく、パリの喧騒から遠い場所だった。
母は、弟と手を繋ぎ、空いた方の手でテレーズの手を取った。
テレーズが母と手を繋ぐのは、久しぶりだ。
繋がれた手に視線を落とした。母の手は、こんなに小さかっただろうか。
ほとんど同じ大きさの、互いの手。
母の手が小さくなったのではなく、テレーズの手が大きくなったのだ。
三人並んで庭園を散策していると、
「いいこと、二人とも。これから大人たちの言うことをよく聞くのよ」
歩きながら、母が話し始めた。
しばらくの間、家族が離れ離れになるかもしれない。もしそうなっても不安に思う必要はないと。
テレーズは確信した。
母が、テレーズと弟を連れ出したのは、民衆の目をあざむくため。
これから自分たちはパリを離れるのだ。
それは願ったり叶ったりだが、
(ティニは?)
嫌な予感が増す。
親友が医者の元に行ったという話は、やはり嘘なのでは。
「ティニは元気になったら、あなたたちと会えるわ。それまでは寂しいけど、我慢しましょうね」
母の言うことを、弟は信じているようだ。
テレーズには信じられない。
親友のことにしろ、母から今聞かされた話にしろ、どこまでが本当でどこまでが嘘なのか。
不安と動揺で胸が苦しい。
すがる気持ちで、母を見つめた。
「シャルルもテレーズも、安心なさい」
よく見ると、母はやつれている。顔の皺、目の下のクマが目立つ。
疲れきった顔で、母は微笑んでいた。
チュイルリーに帰った後。
テレーズが自分の部屋に戻ると、養育係がやって来た。
嫌な予感は当たった。
養育係から聞かされたこと。親友が病気というのは嘘。昨夜テレーズが眠っている間に、親友はパリを離れていた。
「エルネスティーヌさんが昨夜書いたお手紙です」
差し出された、一通の手紙。
(いつかまた会えるから……それまで少しの間、さよなら……)
その文面を、心の中で繰り返す。
直接別れを言いたかった。
どうしてテレーズに教えてくれなかったのだ。
大人たちは、いつもそうだ。
隠れてコソコソと何かをしている。まるで、子供たちは邪魔者だとでも言うように。
どうせ親友のことにしても、王族ではない子供を同行させる必要はないと、どこか遠い場所へ追いやったに違いない。
悲しみや怒り、日頃の不満。
テレーズが抱えてきたものを、今目の前にいる大人に、養育係にぶつけたい。
「シャルル様は、まだこのことをご存じありません。どうかご内密に」
「……分かったわ」
だが自制した。
そうしなければならないのが、今自分たちが置かれている状況だ。
日が沈み、辺りが闇に包まれる頃。
テレーズは地味な色の服に、弟は女児用の服に着替えさせられた。
養育係に連れられて建物の外へ出て、弟と一緒に馬車に乗せられた。
着替えの間も、外へ出て馬車に乗る時も、テレーズは養育係や女官に言われるがまま。
心は失意の底に沈み、何も考えられなかった。
思考が動きを取り戻したのは、停車していた馬車が走り出した時。
にわかに強い不安に襲われた。
父も母も、叔母もいない中、テレーズたちだけで出発するのだろうか。
すると肩を叩かれた。
「先ほどもお話ししたとおり、チュイルリーから少し離れた場所まで移動し、そこでご両親とエリザベート様をお待ちします。また道中で、今乗っているものから、さらに大型の馬車に乗り換えます。あなた様もご不安でしょうが、私やアントワネット様、エリザベート様が付いています。心配なさることはありません」
斜め向かいの座席にいる養育係が言う。
そういえば、馬車に乗った時、そんな話を聞かされた気がする。
チュイルリーの近くにある広場まで来ると、馬車は停まった。
テレーズは不安な気持ちに耐えていた。
心の中にある秒針が一秒一秒進むごとに、胸が押しつぶされるようだ。
窓の外に目を遣れば、時おり、男性のシルエットが見えた。馬車のことを護衛するように、周りをゆっくりと歩いている。
従者の誰かであろうか。
しばらくして、一人の女性がこちらに歩いてきた。
彼女は扉の前で立ち止まり、馬車の近くにいた従者と何やら話をする。
テレーズは息を殺した。
もしや、自分たちがチュイルリーから抜け出したことがばれたのでは。
扉が開いた。女性の正体は、
「あなたたち、大丈夫?」
ひそめた声は、確かに叔母のもの。テレーズが胸をなで下ろしたのは、言うまでもない。
叔母は、テレーズの隣に座った。
テレーズと弟は、窓側の席で向かい合っており、養育係は弟にぴったりと寄り添っている。
あとは父と母を待つだけだ。
「お兄様とお義姉様は、まだ来ないのかしら」
「陛下は就寝の儀を終えてから、アントワネット様は、陛下がチュイルリーから出たことを確認されたうえで、お越しになります」
「早く出発しないと、周りに怪しまれるわ」
大人たちの会話をテレーズは黙って聞いていた。
そこで、
「フェルセンが道中の先導役なのです。彼とアントワネット様が入念に計画されたのですから、何もご案じなさることはありません」
突として耳に入りこんできた、あの男の名前。
今の今まで、テレーズはまったく意識していなかった。
自分たちが馬車に乗る時に、扉を開け閉めした人物。また今、馬車の周りを護衛するように歩いている人物。
それが誰であるか。
テレーズは窓の方を向き、目を凝らす。問題の男の人影が入り込むのを、固唾をのんで待った。
ほどなくして見えたシルエット。
相手がこちらに顔を向け、ガラス越しにテレーズと目が合った。
間違いない。あれはフェルセンだ。
母とフェルセンが入念に計画したと、養育係は言った。
ということは、親友を同行させないのも、母とフェルセンで決めたことなのだろうか。
テレーズは知らなかった。
娘から、心の支えである親友を引き離す一方で、自分は愛人と共に安全な場所へ逃れようとする。
母が、そんな酷い女であったことを。
親友のことだけではない。
このままパリを脱して安全な場所に逃れたら、両親は形ばかりの夫婦になる一方で、母はフェルセンと結ばれるに違いない。
母は婚外恋愛にうつつを抜かし、本当にフェルセンの子を産んでしまうかもしれない。
テレーズから大切なものを取り上げる母。
私生児を産むような母。
そんな母は、要らない。
母がそんな女になる姿を見せられるくらいなら、
「私は降ります」
テレーズは座席を立った。
「どうしたの、テレーズ」
「何をおっしゃるのですか、テレーズ様」
扉側に座る叔母と養育係が、行く手を阻んでいる。
「フェルセンに連れて行かれるくらいなら、今すぐ降ります。あの男に先導されるなんて反吐が出るわ」
「なんてお言葉を……」
「急に何を言い出すの」
「いいから退いてください、外に出られません」
大人たちの非難めいた視線が突き刺さろうと、弟が驚いた顔でこちらを見ていようと、テレーズの知ったことではない。
「なりません、ご両親がお見えになります」
養育係に腕を掴まれる。
「触らないで、汚らわしい!」
その手を、力任せに振り払った。
婚外恋愛に共感したり、逢瀬に加担したりする。そんな女どもは全員愚かで下品で汚らわしい。
「テレーズ、一体どうしたの、あなたらしくもない」
叔母の言葉は、テレーズの怒りを助長した。
あなたらしくもない、と叔母は言った。
テレーズらしさとは何だ。
感情に任せて、叔母に言い放った。
姪のことを何だと思っているのだ。大人たちの悪口や陰口、不道徳を、何も知らないふり。お行儀のいい王女でいることが、テレーズらしさだとでも言いたいのか。
そうだとしたら、叔母には幻滅だ。
黙って良い子にしている子供など、おままごとの人形と同じ。芝居の小道具と同じだ。
テレーズは人形ではない。
テレーズは小道具ではない。
テレーズは……。
「私はあの男のことが、お母様の愛人のことが大嫌いなのよ!」
続けて言葉をぶつけようと、息継ぎをした。
瞬間、我に返った。
いつの間にか、馬車の扉が開いていた。
見間違いでなければ、扉の前にいるのは父と母、そしてフェルセン。
テレーズの中に、ふっと冷静さが戻った。
怒りが陰をひそめるとともに、気まずさが込み上げる。
しばし場が静まり返ったが、
「支度が整いました。出発します」
フェルセンが口を開いた。たった今の出来事は、なかったかのように。
テレーズは降りることを断念した。
両親が馬車に乗り込むと、車内は窮屈になった。
斜め向かいに座る母に、名前を呼ばれた。
テレーズは無視した。
隣に座る叔母にも呼ばれた。明らかに苛立ちの混じった声で。
誰に話しかけられようと、テレーズは返事をしないと決めた。これは、大人たちに対する無言の抗議だ。
「母上のあいじんって、なんのこと?」
「シャルル様、今はお静かに」
のん気な質問をする弟と、ごまかそうとする養育係。
父はというと、何も言わなかった。それでも娘のことを気にしてはいたようだ。
隣から父の視線を感じても、テレーズは知らぬふりをした。
きっと娘の思いを汲み取ってくれたに違いない。
道中で父が命じた。フェルセンを先導役から外すようにと。
それから先、テレーズたちの身に起こったことを詳しく語る必要はない。
ヴァレンヌ逃亡事件として有名な出来事だ。
【38. わがまま】




