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37. さよなら

 テレーズたちが心待ちにしていた日。


 サン・クルーに向かおうとしたが、それは妨害された。王家の馬車は、門の前で引き返し、来た道を戻った。


 同乗していた人々と共に、テレーズは馬車から降りる。


 一層はっきりと聞こえる、暴徒のわめき声。

 門の前に群がり、テレーズたちの行く手を阻んだ連中だ。


 馬車から降りたのは、両親と弟、親友と叔母、少数の従者。あとテレーズと親友にとっての招かれざる客プロヴァンス伯。

 みなが呆然とし、悲痛そうな顔をしている。


 どうして、とテレーズは自問した。

 自分たちは、このチュイルリーから出ることも許されないのだろうか。


「……お気の毒だわ。アントワネット様は何も悪くないのに」


 テレーズの背後で誰かがつぶやいた。


 そこにいたのは一人の女官。彼女もサン・クルーに行く従者だった。

 様子がおかしい。表情を失くした顔で、どこかを見ている。


 テレーズはハッとした。

 確か、この女官はプチ・トリアノンにいた頃から、父の悪口を言っていたうちの一人。


 彼女の視線をたどる。その先にいたのは、馬車の近くで立ち尽くしている父。


「アントワネット様がこんな目に遭ってるのも、何もかも全部全っっっ部アンタのせいよ!」


 女官の顔が、暴徒さながらの形相に変わった。


「ジョゼフ様じゃなくて、あんたが死ねばよかったのよ!」


 今すぐ死ね、地獄に落ちろ、などと狂ったように叫びながら、彼女は父のいる方へ走っていく。


 テレーズは狂女を追いかけようとしたが、


「お黙りなさい!」


 それより早く、カンパン夫人が狂女の行く手をふさいだ。


「陛下の御前で、何てことを言うの」

「陛下ですって?」


 咎められても、狂女は悪びれる様子ひとつ見せない。


「アントワネット様をこうも不幸にしたうえに、王家をここまで滅茶苦茶にした男なんて、不能のゴミクズで十分だわ」

「あなた、気が触れて」

「言っておきますけどねえ、カンパン夫人」


 カンパン夫人の言葉に狂女の声が被さる。


「風紀が乱れる口を慎めって、お小言ばっかり。でも本当は、この図体が大きいだけのノロマの大愚図に対して、言いたいことを山ほど抱えてる。真面目で忠義者の女官長は、本心を隠す天才だってことを、アントワネット様のおそばに仕える者はみーんな知ってるんですからね!」


 狂女の息巻くことに、青ざめるカンパン夫人。

 目の前にいる上司を嘲笑うかのように、狂女はわめき散らす。


「三部会なんてやるべきじゃなかった、もっと早く宮廷を地方へ移していれば、民衆に譲歩してパリに行かなければ、そもそもこんな決断力のない甲斐性なしと結婚させられなければ、アントワネット様はこうまで不幸にならなかった。私たちの女主人は生贄(いけにえ)にされ」


 狂女の声が、ぴたりと止んだ。

 母が止めたのだ。

 女二人の元へ行き、彼女たちの間に立った。母がそうしただけで、カンパン夫人の言うことを聞かなかった狂女が、途端に大人しくなった。


「彼女を責めないであげて」


 顔面蒼白になっていたカンパン夫人に、母は弱々しく微笑む。

 そして狂女に対しても、


「あなたも疲れているのね」


 今この場にいる誰よりも、傷つき疲れているのは、他でもない母のはずなのに。


「カンパン夫人も、あなたのことが嫌いで、きつい言い方をしたんじゃないの。だから悪く思わないであげて」


 崩れ落ちるように座り込み、声を上げて泣き出す狂女。

 母は律義にも、身を屈めて狂女を抱きしめた。


(なんて見苦しいのかしら)


 狂女のことをにらみ付けながら、テレーズは心の中で吐き捨てた。シャルルのような幼い子供もいる前で、これが大人の見せる態度か。


 テレーズは、あんな恥ずかしい大人とは違う。

 母と狂女の横をすり抜け、向かった先は父の元。


「お父様」


 呆然とたたずんでいた父が、こちらを向く。


 うつろな目をしている。大柄な父がこんなにも頼りなく見えたのは、初めてだ。

 ならば、娘が支えればいい。


「屈んでいただけますか」


 テレーズはとびきりの笑顔を作り、身を屈めた父に抱き着いた。

 励ましの言葉は必要ない。


「ありがとう、テレーズ」


 大きな腕が背中に回され、抱きしめ返された。


 次は母の元に行きたかったが、今は後回しだ。

 本当は、あのようなゴミクズ女官から一刻も早く母を引きはがしたい。それでも、母の優しさに免じて見逃すことにした。


 先に、弟の元だ。

 弟は先月六歳になったばかり。幼い子供にとって、今の場面はショックなものだったはず。なだめに行こう。


 テレーズが視線を移した時、ちょうどプロヴァンス伯と目が合った。


 彼は、じっとこちらを見ている。にらむような目つきではない。

 おもむろに、その手が伸ばされる。

 来いと言っているのだろうか。


 テレーズの本音としては、行きたくない。


 だが少し考えた。

 この叔父は、テレーズたち家族に敵意を持っている。姪から歩み寄ることで、敵意を和らげることが出来るかもしれない。


 仕方がないと自分に言い聞かせ、テレーズは彼の元に向かった。


「叔父様」

「ああ、我が子よ」


 テレーズが目の前に立つやいなや、彼は姪のことをきつく抱きしめた。せり出した下腹と太い腕が、テレーズをきつく拘束する。


(なにが我が子よ。私は、あんたの娘になった覚えなんかないわ)


 心の中で言い返した。


 苦しい。息が出来ない。

 もしや彼は、テレーズのことを窒息させるつもりなのでは。


 ほどなくして腕が解かれ、苦痛な抱擁から解放された。


 今度こそ、弟の元に行こう。

 弟のすぐそばには養育係がいた。彼女のことだから、父の悪口を弟に吹き込んでいるかもしれない。止めに行かなくては。




■■■




 サン・クルー行きが叶わないまま、二ヶ月以上が過ぎた。


 その日の夜、エルネスティーヌは寝支度をするため人を呼んだ。着替えのときは、いつも誰かしら女官に手伝ってもらう。


 部屋に来たのは養育係。

 今日の彼女は、いつにもまして険しい面持ちだ。


 王のことで、また苛立っているのだろうか。


 チュイルリーに来てから、養育係はすっかり近寄りがたい存在になっていた。シャルルはまだ彼女に懐いているようだが、エルネスティーヌは彼女に対して、もう以前のような親しみを持てない。


 こんな怖い顔をしょっちゅう向けられれば、距離を置きたくなって当然だ。


「今からお話しすることを、静かにお聞きください」


 養育係は寝支度を始めない。代わりに、改まった様子で口を開いた。


 話が進むにつれ、エルネスティーヌにも分かった。それが重大な事柄であると。


 六月二十日、つまりは明日。

 王と王妃、エリザベート、テレーズとシャルルはチュイルリーを去る。

 夜陰に乗じて逃げるため、決しておおやけにはされない。

 亡命するのは、王族および少数の従者。

 エルネスティーヌは同行しない。遠くに住む親戚に預けられる。


「そんな話、聞いて」


 親戚の元に行くなどという話は聞いていない。そう抗議しようとしたが、口をつぐんだ。


 養育係の手が、あるジェスチャーをしたからだ。


 誰がスパイかも分からない中で意思疎通をはかるために、王妃が考案した身振り。

 その意味を知っているのは、王一家をはじめとする、ごく一部の人のみ。


 養育係が今示した意味は、


『黙って、注意深く話を聞きなさい』


 エルネスティーヌはもどかしい気持ちのまま、話の続きに耳を傾けた。


 今夜のうちに、エルネスティーヌは先んじてチュイルリーを発つ。出立の手はずは、すでに大人たちで整えた。


 あとはエルネスティーヌ自身が旅支度をする。

 荷物をまとめて、必要があれば手紙を書き残していく。


 王と王妃、そしてエリザベートとは、それぞれが少ない時間ではあるが、最後に面会できる。

 だがテレーズとシャルルには会えない。

 二人は、まだ亡命のことを一切知らない。


 テレーズたちと次にいつ会えるか。現時点でははっきりと言えないが、長い別れになることは覚悟した方がいい。

 以上が、聞かされた話の内容。


 こちらから質問したいことは山ほどあったが、


「のんびりしている時間はありませんので、お急ぎください。私は扉の向こうで待っています。支度を終えられたら、お声がけください」


 養育係はそう言い残し、退室した。


 一人残された部屋で、エルネスティーヌは意味もなく辺りをうろうろした。

 今の話は、何もかも夢であってほしい。


 ふと気づいた。確か、明日は夏至。


 夜陰に乗じて逃げると、養育係は言っていた。

 出発日は、一年のうちで最も夜が短い日。亡命を計画した大人たちは、そのことを知らないのだろうか。


 もっとも、そんな指摘をする立場も時間も、エルネスティーヌは持ち合わせていない。


 ひとまず支度に取りかかった。急いで荷物をまとめて手紙を書かないと、王夫妻とエリザベートに会う時間が無くなってしまう。


 荷物は出来るだけ減らすようにと言われた。

 エルネスティーヌが持っていくと決めたものは、お金や宝石類ではない。

 大切な人たちとの思い出の品々。


 それと、


(荷物になるから置いていけって言われても、持っていきたい)


 初恋の彼に、自分の姿を描いてもらった絵。レッスンの時に使っていたスケッチブック。

 このふたつも持ち物に含めた。


 それから机に向かった。

 手紙を書く準備をする。


 せめてテレーズには、直接別れを言いたい。


 何故こんな日に限って、テレーズはエルネスティーヌの元に来ないのだろう。いつものように、眠れないからと言って来てくれれば、最後に会って話が出来るのに。


 テレーズを置いていくのは不安だ。幼いシャルルのこと以上に、親友のことが心配だった。


 大人たちに不信感を募らせている親友に向けて、励ましの言葉を残したい。だが手紙の中で、そのことには触れない方がいい。王夫妻や養育係に読まれる可能性がある。


 何を書いたらいいか。時間がないと意識すると余計に気持ちが焦り、内容がまとまらない。


 信じがたい現実に、今になって感情が追いついてきた。

 涙があふれて便せんの上に落ち、書きかけの文章がにじんだ。


 民衆の暮らしは困窮しているというのに、紙を一枚無駄にしてしまった。


 次は書き損じをしないように。

 涙をぬぐい、今伝えられることを短い言葉でつづった。



‘テレーズとシャルルへ


いつかまた会えるから

それまで少しの間、さよならをします。


エルネスティーヌ’




【37. さよなら】


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