36. ある夜中、王女の恨み言
テレーズたちはパリに戻り、陰鬱な宮殿での暮らしに逆戻りした。
「長く貯蓄しすぎて傷んだから廃棄するなんて、嘘に決まってるわ」
「口を慎め。スパイがいるかもしれないことを忘れたのか」
ある日、偶然耳にした両親の会話。
飢えている民衆のために、小麦を援助する。そう命令を出したと、以前両親が話していた。
窓からセーヌ川の方を見れば、大きな袋を満載した荷馬車が列を成している。
川岸に停車すると、積まれていた袋が次々と川に投げ捨てられていく。
チュイルリーは川のすぐそばにあり、その光景がよく見えた。
母の言うことが本当なら、袋の中身は、民衆のために与えた小麦。
まだ食べられるものを廃棄しているのか。
傷むまで、わざと放置していたのか。
「これはオルレアン公のしわざよ。私たちを陥れるために、民衆を扇動してるんだわ」
「いいから落ち着け」
「あの連中がパリで熱狂的に歓迎されていて、私たちはまるで罪人。なにが革命よ。これは仕組まれたもの、陰謀だってことが、あなたには分からないの?」
テレーズのいる場所からは、両親の顔は見えない。
それでも声で分かる。母が追い詰められているのだと。
対する父の声は、どこか冷たい。
落ち着けと言ってはいるが、父自身も苛立ち、母を突き放しているかのようだ。
「……あなたには、私の気持ちは分からないでしょうね」
母のすすり泣く声。
「カンパン夫人が言ってたわ」
「何と?」
「あなたは私を隠れ蓑にして、民衆が向ける敵意から逃れているって」
「……」
「私にも、そうとしか思えないわ」
物音を立てないように、テレーズはその場を後にした。母の最後の言葉は聞きたくなかった。
この日の夜中、テレーズは親友の寝所に行った。
部屋に入り、何も言わずに掛け布団をめくり、中にもぐり込む。
親友も目を覚ましたようだが、驚いた様子を見せない。テレーズが何度も同じことをしているため、慣れたのだろう。
「どうしたの」
「眠れない」
「怖い夢?」
ヴェルサイユで見た地獄絵図は、今もたびたび夢に出てきて、テレーズを苦しめる。
だが今夜は、それとは違う理由。
「お母様も叔母様もどの女官も、お父様まで、みんなギスギスしてる。もうイヤ」
「私もよ。何もしてないのに、私が怒られてるみたい」
「みんな、お父様のことを嫌いになったのね」
「どうしてそう思うの?」
「見てれば分かるわよ!」
静かに、と親友にたしなめられても、テレーズの心は静まらない。
「お母様は、あれだけ民衆から目の敵にされてるのに、まだフェルセンと付き合ってる。お父様はもう諦めてるのか、何も言わない」
吐き出しても、少しも気持ちは軽くならない。
かえって、胸の中にある、どす黒いものが増していく。
「私たちの国にスケコマシを遣わせるなんて、グスタフ三世もどうかしてるわ。スウェーデン王まで臣下の不道徳を見て見ぬふりだなんて、家来が家来なら、王も王ね」
「テレーズ」
「あの間男は、きっと今もチュイルリーにいて、お母様の部屋に忍び込んでるのよ。私みたいな邪魔者を近寄らせないように、カンパン夫人や女官たちや叔母様が見張ってるんだわ」
「テレーズ」
「私はお父様とは違うから、黙ってるだけのお人よしになんてならないわ。間男がお母様のことを妊娠させでもしたら、私が殺」
「テレーズ」
三度目に呼ばれた声は、一度目二度目より大きい。
その声が、テレーズの良心に歯止めをかけた。
これ以上を口にするのは、いくら何でも、人として良くない。
だがそれでも、
「みんな最低よ」
心が苦しくて仕方がない。やり場のないこの気持ちを、どうすることも出来ない。
「みんなってことは、私も?」
悲しそうな声に聞き返される。
「シャルルも、ココのことも、最低だって思う?」
「……言い過ぎたわ」
弟やココを、大人たちと一緒にしてはいけない。
「大人はみんな最低。大っ嫌い」
フランスでは十三歳から成人とされている。
今年の夏には親友も、暮れにはテレーズも成人になる。
大人になりたくない。
テレーズの周りにいるのは、ずるくて汚い大人ばかり。尊敬できる大人は一人としていない。
自分もいずれ、醜い大人たちのようになるのだろうか。
そう思うと、段々と丸みを帯びて、女性らしい体つきになる自分の体までもが憎い。
こうした気持ちも言葉にしたかったが、また声を荒らげてしまいそうで、口をつぐんだ。
「何が正しくて、何が間違っていることなのか、私には分からないわ。だから、今から言うことは、政治のことなんて大して知らない小娘の独り言よ」
沈黙を破ったのは、親友の落ち着いた声。
「きっとみんな、それぞれに言いたいことがあると思うの。王のせいだ王妃のせいだ。こいつが悪い、あいつの責任だって。でもまあ、私から言わせるなら、誰かのことを責めるだけなら誰にでも出来るじゃないって思うけど」
最後の一言だけ、口調が親友らしくなかった。何かに対して、静かに怒りをぶつけるような。
そして、いつもの声に戻る。
「私はね、こうすればよかった、ああしていればよかったのにって、そういう言葉で『今』を悪く言いたくないの」
「どういうこと?」
「マリー・アントワネットが、ランブリケ夫婦の一人娘を、マダム・ロワイヤルと一緒に育てた。二人の女の子は身分の壁を越えて親友になり、ルイ十六世の甥二人とも仲良しになった」
二人は、それぞれ兄と弟に恋をした。
「こうしたこと全部が、神様の創造してくださったもの。どれかひとつでも違ったり、人やものが欠けていたら、私もテレーズも、自分の大切な人たちと出会えなかったかもしれない」
「それが、ティニの言う『今』なの?」
「ええ。だから悪く言いたくない。これが私の気持ちよ」
親友が言いたいことも、分からなくはない。だがテレーズは同じように考えられない。
それに、
「ベリー公と離れ離れになっちゃったじゃない。ティニは、それでよかったの?」
「……いいの。革命が起こっていなくても、宮廷がヴェルサイユにあったままでも、どのみち叶わない恋だったもの」
「ティニは、まだベリー公のことが好きなのね」
「テレーズは、もうアングレーム公のことが好きじゃない?」
聞かれたことに、そうだと答えた。
アングレーム公は、もうテレーズの想い人ではない。
一年あまり続けていた文通。つい先日、止めたいと書き送ったので、もう返事が来ることはないだろう。
彼からの手紙には、いつもこう書かれていた。
‘いつになるかは分からないが、必ず帰ってくる’
この一文を見るのが、つらくなった。
一体いつになったら帰ってくるのだ。
三ヶ月と言っていたのに、一年以上経っても帰ってこない。アルトワ伯や先んじてフランスを離れた人々と共に、まだ国外にいる。
テレーズがチュイルリーでつらい思いをしているというのに、アングレーム公はいつまで経っても助けに来てくれない。
それだけではない。
彼に縁談が持ち上がっているという話を聞いた。相手はテレーズではなく、外国の王女だと。
テレーズは、もうアングレーム公のことが好きではない。
アングレーム公はフランスに帰ってこないまま、他の誰かと結婚するかもしれない。
自分たちが文通を続ける意味はなくなった。
「もう寝ましょう」
親友の寝間着の袖を掴んだ。自分の寝所に戻りたくない。
「分かってるわ。朝まで一緒にいるから」
そうだ、と親友は続ける。
「春になったら、またサン・クルーに行くでしょう。それまではお互い辛抱よ」
またサン・クルーに行ける。そのことを思い出せば、わずかではあるが気持ちが明るくなった。
家族が信頼できなくても、想い人がいなくなっても、テレーズには親友がいる。
【36. ある夜中、王女の恨み言】
≪補足≫
十三歳から成人というのは、作中の頃の話です。




