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35. 侮辱と軽蔑 後編

 サン・クルーを発つ前日。

 夕暮れ時、テレーズは親友に誘われ、父の部屋に立ち寄った。


 テレーズたちが部屋に入った時、父は窓辺に立っていた。

 窓の外に何かあるのかと親友が尋ねる。


「ここから見える景色を、もう一度見ておきたくてな」


 サン・クルーは丘の上にあり、セーヌ川を挟んでパリを見おろすことができる。その景色を眺めていたらしい。


 テレーズは、パリのある方角をずっと眺めていたいとは思わない。

 チュイルリーは元よりパリは大嫌いだ。


「てっきり、狩猟に行きたくてウズウズしているのかと思いました」

「ティニにはばれてしまったか。確かに、それもある。この辺りには森が広がっているからな」


 話しながら、父が下腹に手を乗せる。


「以前は、よく狩猟に出かけたのだが、最近は運動らしい運動が出来ていない。おかげで、さらに太ってしまった」

「狩猟は運動になるのですか?」


 親友が聞き返す。


「もちろんだとも。一日中座りっぱなしや、移動はすべて馬車という生活では、運動不足になってしまう」

「じゃあ……」

「どうした、ティニ」

「私やテレーズも、運動をしないと太ってしまうのですか?」


 親友の言葉で、テレーズも気になった。

 いずれ自分たちも、父のような体型になるのだろうか。


「お前たちは、わんぱくなシャルルの遊び相手をしているだろう。それだけでも十分な運動だ。間違っても、体重を気にして食事を減らすなんてことはしないように」

「ですって、テレーズ」


 親友が突然こちらを向く。


「出された野菜は、嫌いなものでも食べなくちゃだめよ」

「な、なんで急に野菜の話になるのよ」


 確かに、何皿も出てくる食事のときは、嫌いな食べ物にまで手を伸ばさない。

 昔は、嫌いな野菜が出ても残さず食べなさいと母から言い付けられていたが、それはメニューが少ない質素な食事のときだけだった。


「なんだ、テレーズにはまだ野菜の好き嫌いがあるのか」

「ありません。何が出ても、ちゃんと食べられます」


 テレーズはすぐに否定した。

 食べ物の好き嫌いがある、子供っぽい娘だと思われたくはない。


「噛まずに飲み込んでるのよね」

「ティニったら、余計なことを言わないで」


 父と親友は顔を見合わせ、おかしそうに笑った。


 親友が、テレーズを会話に入れようとしている。話の流れでそれに応じたテレーズは、必然的に父とも言葉を交わす。

 久しぶりだった。テレーズが父と長く話をしたのも、父と笑い合ったのも。


 親子で過ごす穏やかな時間。

 それは、取り次ぎの声で中断された。


「プロヴァンス伯がお見えになりました」


 父の表情がこわばったのを、テレーズは見逃さなかった。


「二人とも、自分たちの部屋に戻っていなさい」


 そう言い残し、父は部屋から出ていく。


 閉められた扉。

 向こうから話し声が聞こえるが、内容までは分からない。


 しばらくすると、扉越しの声が近づいてきた。


「出ましょう、ティニ」


 親友は、扉の方をにらみ付けている。

 そうしたい気持ちはテレーズにも分かるが、父に言われたとおり、ここから出て行かないと。


 テレーズは親友に近づき、もう一度声をかけた。

 すると思いもよらないことが。


「え? ちょ、ちょっと、ティニ?」

「静かに、気づかれるわ」


 親友が突然テレーズの腕を掴み、部屋の奥へと引っ張っていく。驚いたテレーズは、大した抵抗も出来ない。


 父が出ていった方とは反対側にある扉。

 鍵はかかっておらず、すぐ開いた。

 そこは納戸のような部屋で、小さい窓から夕日が差し込んでおり、真っ暗ではない。


 連れられるまま、テレーズも納戸に入る。

 親友が扉を閉めた直後、あちらの部屋から扉の開く音がした。


「明日パリに戻らねばならないと思うと、寂しいものですね、兄上」


 扉越しに聞こえる、あの叔父の声。

 

 親友が扉に耳を押し当てる。

 テレーズも同じように耳をそばだてた。


「民衆はさぞ喜ぶでしょう。兄上のご帰還は、彼らの待ち望んでいること。卑しい者たちの不満のはけ口になるのは、善良さに定評のある兄上にしか出来ないことですから」


 この扉は薄いのか、向こうの声がよく聞こえる。


「もっとも、兄上の顔にどれだけ泥が塗られようと、革命によって失われたもの、失われつつあるものへの代償にはなりませんがね」


 嫌みのような言葉は続く。気取ったように抑揚をつけて。


「それにしても、神は残酷なことをされたものだ。私たちの父か、あるいは英邁な君主になると期待され、みなに必要とされていた方の子供、兄ブルゴーニュ公が生き長らえて王位を継いでいれば、我々の国はこんなことになっていなかった。神は何故、手にかける者をお間違えになったのだと。今でも多くの人々が思っていますよ」


 プロヴァンス伯の言葉は、どう聞いても父に対する悪意がある。


 父に敬意を示さない国民衛兵や議会の者、罵詈雑言をわめく民衆、悪口を止めない女官たち。

 どれだけ多くの人間が、父のことを侮辱してきただろう。


 さりとて、革命家や民衆や女官といった連中は、テレーズや父にとって肉親でも何でもない。

 突き詰めて言えば、赤の他人。


 しかし、この叔父は違う。

 だからこそ、テレーズは許せない。


(あんな男、私の叔父でも何でもないわ)


 嘘の笑みを顔に張りつけた猫かぶり、外面がいいだけの男プロヴァンス伯。

 その仮面を、今ここで、テレーズがはぎ取ってやる。


 テレーズはドアノブに手をかけた。

 だがそこで、上から親友の手が重なった。


 無言で首を振る親友。いけない、と言うように。

 テレーズも同じように首を振った。この手を離して、と。


 ドアノブをめぐる攻防。

 その間にも向こうから聞こえてくる、不快なしゃべり声。


 母も叔母も、父に愛想を尽かしている。国外に逃れたアルトワ伯やコンデ家も、父を見限っている。シャルトル公がジャコバン・クラブに入った……等と。


「どうしたのですか兄上、聾唖(ろうあ)でもあるまいし、目下の人間に何を言われようと反論ひとつ出来ないのですか。そんなふうだから、出来損ないだの欠陥だの、身内にまで好き放題言われるのですよ」


 父を愚弄することを、この男は面白がっている。

 対する父は、先ほどから何も言わない。

 そのことがテレーズの怒りを助長する。


(お父様、どうして言い返さないのですか!)


 この状況を打開できるのは、もはやテレーズだけだ。


「やれやれ、こちらが一方的に話していても退屈なだけだ。私はおいとま」

「お前は昔から変わらないな、プロヴァンス」


 その声に、テレーズと親友はぴたりと動きを止めた。


「失うには惜しい命だと嘆かれた兄ブルゴーニュ公。周囲の者を楽しませることにかけては、右に出る者はいないアルトワ。この二人と比べれば、お前の目に映る私は、大した人間には見えない。だからこそ『自分の方が優れている』という気持ちは、お前にとって何より大事なものだった」


 父の声は落ち着いていた。ただ、いつもの穏やかさがない。

 冷たく、温度がない声。

 不敬な王弟に対し、父は静かに怒っている。


「ところが父の死により、私は王太子となったばかりか、魅力あふれるオーストリア大公女を妃に迎えた。私が早くに死んでいれば、お前の妃になっていた女性をな」


 以前に比べて、父の声は聞き取りやすくなった。

 大衆の前や広い空間で話す機会が増えたため、よく通る声になるよう父が訓練していたことを、テレーズは知っている。


「王位に就き、世継ぎももうけた私のことが、うらやましくて仕方なかったのだろう。お前はいつどんな時でも、兄弟の中で『一番下』になりたく」


 父の言葉が途切れた。プロヴァンス伯が突然大きな声で笑い出したのだ。


「うらやましいのはあなたの方でしょうが! マリー・アントワネットに手練手管で官能を教え込み、子を孕ませたのは、友人がいないルイ十六世ともお情けで仲良くしてくれるスウェーデン貴族。そのことは今や国中に、いいやヨーロッパ中に知れ渡っていることだ!」


 高笑いとともにプロヴァンス伯はまくし立てる。


 テレーズは我慢ならなくなり、ドアノブを掴んでいた手に、再び力を込めた。

 だが今度も親友に制される。


「怒りは、私の手にぶつけて」


 小声で言われたことに、テレーズは一瞬手から力が抜けた。

 親友はその隙をつくように、ドアノブからテレーズの手を引きはがした。


 テレーズの両手を握る、親友の両手。

 この手に怒りをぶつけて、というのだろうか。

 そんなことはしたくない。親友の手を傷つけてしまう。


 テレーズが葛藤している間にも、扉越しのわめき声は止まらない。


「太陽王ルイ十四世、最愛王ルイ十五世と続く呼び名は、そうだな、寝取られ王なんて、ちょうどいいじゃないですか」


 テレーズの怒りが、思考を凌駕した。


 手に爪を食い込ませた。

 自分の手なのか親友の手なのか分からないが、そんなこと、今はどうでもいい。


「あるいは不能王! なんて印象的な名だ、世界中の人間がすぐ覚えるでしょうな!」


 痛い。痛いくらいに、怒りをぶつけた。


 テレーズがそうするのと同じように、親友も爪を食い込ませる。自分の手が痛いのは、どちらの爪が傷つけているせいか分からない。


 指先にぬめりとした感覚。力を入れ過ぎて、血が出たようだ。


 自分の体に流れる血、ブルボン家の王族としての貴い血を、テレーズは生まれて初めて恥ずかしいと思った。

 こうも品性下劣な叔父と同じ血が、自分の体にも流れているのだ。


 涙がにじむほど痛くても、爪を立てる指先に力を込める。

 どれくらい、そうしていただろう。苦痛と闘う時間は、とてもとても長いものに感じられた。


 耳ざわりな長広舌(ちょうこうぜつ)が、ようやく止んだ。


「こんなに生き生きしているお前の姿は初めて見た」

「あなたが知らなかっただけだ」


 温度のない父の声と、プロヴァンス伯の捨てぜりふ。


 扉が荒々しく開閉される。

 ほとんど一方的な会話が終わり、ようやく静かになった。


 テレーズも親友も、爪を立てるのを止めた。


 ヒリヒリしている両手。

 だがそれ以上に、何十倍も何百倍も心が痛い。


「出てきていいぞ。そこにいるんだろう、テレーズ、ティニ」


 扉越しに呼ばれ、心臓が跳ねた。


 もう隠れていても意味はない。ドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開けた。


 父は椅子に腰かけ、穏やかに微笑んでいる。あんなことがあった直後だというのに。


「嫌な話を聞かせてしまったな」


 いつもの父の声に戻っている。


 テレーズたちが父の前まで来ると、父は驚いた様子で立ち上がった。


「二人とも、その手はどうした」


 涙で、父の姿がにじむ。

 事情を話そうとするが、テレーズも親友も泣いてしまい、ちゃんと説明できない。


「手で涙をぬぐうな。血が付いてしまう」


 父は、部屋にあったタオルを持ってきた。


 涙が引いてから、テレーズたちは事情を明かした。

 こちらが話し終えると、父は口を開いた。


「約束してくれ。二度と、自分の体を自ら傷つけることはしないと。自分の子供、ましてや娘にこんな真似をされて、喜ぶ親はいないんだ」


 約束すると、テレーズも親友も涙ながらに答えた。


「だが元はと言えば、私の責任だな。二人とも、本当にすまなかった。サン・クルーでの最後の思い出を台無しにしてしまって」


 父が謝る必要はない。そう伝える代わりに、大きな手を握り返した。




 この日の夕食に、プロヴァンス伯の姿はなかった。テレーズが胸をなで下ろしたのは、言うまでもない。


 食卓に着く時、弟は驚いた顔をして、テレーズと親友に駆け寄った。


「ケガをされたのですか?」


 手に巻いた包帯に気づいたようだ。

 テレーズは、親友と顔を見合わせる。どう説明したらいいか。


「庭に咲いていたバラを摘もうとして、二人とも手を傷つけてしまったの。そうよね、テレーズ、ティニ」


 母が代わりに答えてくれた。父から事情を聞いているのだろう。

 弟は、母の言葉を信じたようだ。


「ぼくもバラをつみたいです」

「なら、今度みんなでお花摘みをしましょう」


 母の言葉に、弟は無邪気に笑った。




 夕食の後、テレーズの部屋に親友が来た。


「今日のことは、私のせいよね。あの時、無理やり奥の部屋へ連れ込んだから」

「お父様もティニも、自分のことを責めるのは禁止。これはマダム・ロワイヤルの命令よ」


 最後の言葉は、いつかの母の言葉をアレンジしたものだ。


「でもあの時、テレーズの手に思いきり爪を」

「もう謝るのは終わり!」


 それ以上は言わせまいと、親友を抱きしめた。


「ありがとう、ティニ」


 ごめんなさいの言葉を聞くより、ありがとうの言葉を伝えたい。


「ティニが止めてくれなかったら、私は飛び出していって、あの男のことを怒鳴りつけてたわ。もしそうしてたら、私もティニも、きっとあの男から目の敵にされた。そんなことになれば、私以上に、ティニの身が危うくなるもの」


 叔父様ともプロヴァンス伯とも呼ばない。

 あの男で十分だ。


「私のことは気にしなくていいのに」

「いいわけないでしょう。私たちは姉妹、家族なのよ。ムードンでお父様から言われたことを、まさか忘れたの?」

「そうだったわね。ちょっと忘れかけてたわ」

「ティニのばか」

「実を言うとね、仲直りをしてほしかったの」

「仲直り?」


 テレーズは少し体を離し、親友と向かい合った。


「最近のテレーズは、お父様のこともお母様のこともエリザベート叔母様のことも、避けてたでしょう」


 確かに、そのとおりだ。

 テレーズは身近な大人たちのことが嫌いになりつつあった。


 フェルセンと不倫を続けているに違いない母も。

 逢瀬に加担しているに違いない叔母も。

 そして、母たちの裏切りを咎めもせず、また悪口を止めない者たちを野放しにしている父も。


 親友は話を続ける。


「前みたいに、また仲良くしてほしかったから、私に何か出来ることはないかって考えてたの。それで、今日お父様の部屋の近くを通りかかった時、とっさに思いついて」

「部屋に行こうって言い出したの?」

「ええ。結局、あんなことになっちゃったけど」


 気まずげに伏せられる親友の目。


 テレーズの気持ちを見抜いていた親友が、父とテレーズの仲を修復させようとして、父の部屋に行こうと誘ったのだ。


 親友がまた前を見て、その目にテレーズを映す。


「私がしたことは勝手なことだったかもしれない。でも私にとって、テレーズもお父様もお母様も、エリザベート叔母様も、シャルルもココも、大好きな家族だから」


 テレーズは何も言わず、親友を再び抱きしめた。


 言葉は必要ない。

 両腕で抱えきれないほどの「大好き」という気持ちを、自分からも伝えたかった。


「テレーズ、苦しいったら」


 と言われるまで、親友を離さなかった。




【35. 侮辱と軽蔑 後編】


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