34. 侮辱と軽蔑 前編
テレーズたちはパリから解放され、サン・クルーに戻った。
サン・クルーにも国民衛兵がいて、また通りすがりの民衆の視線もある。
それでもチュイルリーに比べて、ここはずっと解放的だ。
ある日の夕方。
テレーズは、親友や弟と一緒に、サン・クルーの庭園へ出ていた。
ココと駆け回る弟。あまり遠くへ行ってはいけませんよ、と声をかける養育係。
その光景を眺めていたテレーズは、ふと親友の様子に気づいた。
暗い顔をしている。
「ティニ、どうしたの」
「そろそろ、あいつが来るわ」
どこか遠くを見ながら、親友は答える。
あいつと言われて、テレーズにも誰のことか分かった。
ちょうどその時、親友が見ていた方向から一台の馬車がやって来た。
停車すると、降りてきたのは予想どおりの人物。
父のすぐ下の弟プロヴァンス伯。
続いて降りてきたのは、プロヴァンス伯妃。夫婦そろっての訪問は珍しい。
叔父夫婦は、テレーズたち家族とともにヴェルサイユからパリに来ていた。彼らは今、パリにある別の宮殿リュクサンブールに住んでいる。
チュイルリーでもサン・クルーでも、この叔父は頻繁に姿を見せる。
ただテレーズは、彼のことが嫌いだ。
何故かというと、
「これは、王太子とマダム・ロワイヤル」
こちらに近づき、笑顔で話しかけるプロヴァンス伯。
テレーズは腹立たしさを抑え、挨拶を返した。
叔父は今、テレーズと弟のことだけを呼んだ。
同様のことが、これまでも何度かあった。テレーズの両親やエリザベートがいる前では、親友のことをランブリケ嬢と呼ぶのに。
「外で遊ぶのはいいことだが、暗くなる前に中へ戻った方がいい。君たちは王家の大事な子供、王族なのだから」
ティニは王族ではないと暗に言いたいのか。
一方の伯妃は、
「ごきげんよう」
一言、口にするだけ。むすっとした顔のまま、笑顔ひとつ見せない。
彼らが立ち去ろうとした時、
「叔父上」
弟がプロヴァンス伯を呼び止めた。
「どうして、ティニ姉上にごあいさつなさらないのですか」
養育係が慌てて前へ出て、弟の発言を、叔父に詫びる。
「どうしてあやまるの。叔父上は、ティニ姉上のことをムシしてるんだよ」
弟は、怒った顔を養育係に向ける。
いつの間に、こうもしっかりした物言いが出来るようになった弟。ただ言い方があまりにも率直なのは、幼さゆえか。
「ティニ姉上とは、誰のことかな」
叔父が聞き返すと、弟は答えた。
「エルネスティーヌです。ぼくの大切な姉上です」
叔父の視線が、親友の方を向く。その顔は一瞬無表情になるも、また笑みが戻った。
「ランブリケ嬢、失礼をしたようだね。ごきげんよう」
親友は少し戸惑う様子を見せながら、改めて挨拶を返した。
その場を後にし、建物の方へ歩いていく叔父夫婦。
彼らの背中に向かって、テレーズは心の中で毒づいた。
(あんな男、もう来ないでほしいわ。あと眉毛夫人も)
眉毛夫人というのは、プロヴァンス伯妃のこと。テレーズがひそかに付けたあだ名。
彼女の黒い眉毛は、女性のわりに濃くて立派。それがあだ名の由来。この王弟妃の顔を見た人は、誰もがあの眉毛に目がいくに違いない。
伯妃のそっけない態度は、おそらく甥や姪のことを嫌っているせいだろう。
宮廷行事のときに、他の大人たちと楽しげに話す彼女の姿を、何度か見たことがある。そのときの態度は今とは大違いだった。
プロヴァンス伯に比べれば、伯妃はまだましではあるが、二人ともテレーズにとって好きになれる相手ではない。
叔父夫婦は、この日の夕食に同席した。伯妃はともかく、プロヴァンス伯は常連。
毎度おなじみの光景なのは、この叔父の大食いぶり。きっとテレーズの父より多くの量を食べているに違いない。
夕食の後、テレーズは親友と連れ立って、自分の部屋へ向かった。
その途中、
「そういえば、ランブリケ氏はあなたに仕えていたのよね」
どこからか聞こえてきた話し声。
テレーズたちは足を止め、物陰に隠れた。
「ええ。よくご存じで」
プロヴァンス伯の声と、
「知っているわよ。自分の召使いだった男、その娘が事もあろうに、王家の子供たちと同様に可愛がられている。それを、あなたが面白く思っていないことも」
不機嫌そうな母の声。
「だからって、他の子供たちも見ている前で露骨に無視するだなんて。大人として、みっともない振る舞いをしている自覚がないのかしら」
「義姉上こそ、にわか貴族の娘なんぞを養女にしたことが、旧来の貴族からどれほどひんしゅくを買ったか、まったく自覚がないようで」
「ひんしゅくというのは、あなたの気持ちそのものでしょう?」
「まさかとは思いますが、義姉上は私への当てつけのつもりで、ランブリケの娘を手元に置かれたのですか」
「あなたに答える義理はないわ」
「慈善活動をしたいのであれば、それこそパリの孤児院にいるすべての子供をチュイルリーに迎えればよろしいのに。赤字夫人に対する民衆の敵意も多少は和らぎますよ」
親友を無視していることで、母が叔父を咎めている。
だが叔父は悪びれる様子もない。
テレーズは、自分のすぐ隣を見た。
親友の横顔は、庭園にいた時に見せた表情とはまた違う、とても険しいもの。
にらみ付ける視線の先は、考えるまでもない。
少しの間、テレーズの意識は会話からそれていたが、
「義姉上は不幸な結婚をされましたな」
耳に入ってきた言葉に、ハッとした。
「あの兄はまるで無能。悪妻や周りの者の声に翻弄されては、少しの間も同じ場所に留まっていない。まるで油を塗ったビリヤード玉だ」
父の悪口を、この叔父までもが。
「そんな男に娶せられたのが、あなたの運の尽きでしたね」
母は返事をしない。
どうして言い返さないのだろう。そんなことないわよ、と。
「……そうね」
耳を疑った。叔父の悪意ある言葉を、母は肯定したのだ。
「その無能な王の後釜を狙っていたのに、私が息子を二人も産んだものだから、王弟殿下は王位から遠ざけられて、ますますねじ曲がった性格になったものね。まあそれでも、私はプロヴァンス伯妃にならなくてよかったわ。あなたのような男と同じ部屋の空気を吸っていたら、私まで同じ性格になってしまいそうだもの」
「お二人の悲惨な結婚に比べれば、私たち夫婦は足元にも及びません。義弟のことよりも、今はご自身の身を案じてください、義姉上」
ではそろそろおいとまします、という叔父の声。
遠ざかる足音。会話は終わったようだ。
母は、まだいるはず。
テレーズがここから出ていけば、今の発言について問いただせる。
けれども、尋ねるのが、怖い。
今まで、どんなに酷い言葉が耳に入ってこようとも、父と母の繋がりがテレーズにとっての心の支えだった。
その支えを、テレーズがずっと大事にしてきたものを、母にまで傷つけられた。
「テレーズ」
ひそめた声に呼ばれる。
テレーズは何も言わずに、親友を抱きしめた。こうでもしないと、感情に任せて声を上げてしまいそうだった。
この一件ののち、大きくショックを受けるような出来事には遭遇しなかった。
夏が過ぎ、秋になる。
このまま何事もなく過ぎればいいと願う日々。
だが、いつまでもこの場所にはいられない。いずれチュイルリーに戻らなくてはならない。
七月最後の日、親友が誕生日をサン・クルーで迎えたように。
テレーズもこの場所で、十二歳になる日を迎えたかった。
【34. 侮辱と軽蔑 前編】




