32. 嘆かわしいと、その人は言う 前編
いつだったか、母とカンパン夫人が話していた。
『あの人は王なんだから、もっとシャキッとしてほしいわ。おおやけの場であんな態度だなんて、威厳も何もないもの』
『アントワネット様のお言葉、至極ごもっともです』
大勢の人間に囲まれているときの父は、プチ・トリアノンで過ごすときの姿とは別人だった。
無表情で退屈そう。
話しかけられてもすぐに反応せず、声の調子も暗い。
元より、父はいろんな人と話をするのが好きではないようだ。
とはいえ、別人という点では、母にも同じことが言える。
母はひとたび「王妃の顔」になると、テレーズのことには見向きもしなくなる。
あらゆる人と、ひっきりなしに話をする母。テレーズがその姿を見ていても、母と娘の目が合うことはない。
王妃マリー・アントワネットは、我が子以外の誰かとしゃべることに夢中なのだ。
それだけではない。
王妃の顔になった母は、背筋を伸ばして颯爽と歩く。
もちろん、このときもテレーズのことを見てはくれない。他の宮廷人を引き連れ、どんどん先へと行ってしまう。
テレーズはというと、着心地最悪な礼服と、もさもさした重たい頭のせいで、お行儀よく歩くのが精一杯だというのに。
こうした母とは対照的なのが、父だった。
『その格好で歩くのは大変だろう。ほら、手を繋いで歩こう』
娘の手を取り、一緒に歩いてくれる。
この時には父の顔に微笑みが戻り、テレーズが大好きな、いつもの父の姿になる。
母もカンパン夫人も、どの大人も、きっと知らないのだ。
宮廷の大人たちが見る世界と、テレーズが子供の目線から見る世界。この両者が同じものにはならないことを。
…………。
年が改まっても、チュイルリーでの暮らしは相変わらず。プチ・トリアノンに戻りたくても、その願いは叶わない。
以前の家が恋しいのは、テレーズだけでなく、弟や親友も同じ。
とりわけ弟は、自分の花壇で育てていた花の世話が出来ないと、悲しそうにしていた。
弟のために、父がチュイルリーの一角に、新たな花壇を用意した。
テレーズは、弟の身を案じた。
建物の外に出れば、幼い弟までもが、民衆から危害を加えられるのではないかと。
もっとも、それは取り越し苦労だった。
弟が庭園に出ると、国民衛兵や辺りにたむろする民衆が、じろじろと弟のことを見る。
だが危害を加えようとする者はいない。それどころか、弟が笑顔を見せると、微笑み返す者までいた。
ただ、
「どうしてパリの人は、ぼくやココにはえがおになるのに、母上にはいじわるするの?」
部屋に戻った弟が、養育係に尋ねた。
弟やココに対しては笑顔になる者たちが、どうして母には敵意を向けるのかと。
「シャルル様のお母上様は、何も悪くありません。宮廷のことを知らない者たちは、みなが勘違いをしているのです」
「かんちがい?」
「マリー・アントワネット様ほどの素晴らしいお方はいらっしゃいません。第二の母たるエリザベート様や、お姉様がたも、あなた様の立派なお手本になる方々でございます」
「父上は?」
「……ええまあ、陛下も、ですね」
部屋には弟と養育係しかいなかったが、開いた扉の向こうにテレーズがいることには、二人とも気づいていなかったようだ。
春になり、嬉しい知らせが届いた。
チュイルリーを離れる。パリ郊外にある城サン・クルーへ移り住めるという。
喜んだのも束の間、
「一時滞在?」
「ええ。移り住むわけではないのよ」
「そんな……」
期限付きだと母から言われ、テレーズは肩を落とした。
だが今よりまともな暮らしになるのなら、それだけでも嬉しい。
「ココもいっしょに行けますか?」
「もちろんよ、シャルル」
母の言うことに、弟は大喜びした。
六月初旬、ジョゼフの命日。
一周忌のミサを執り行った後、テレーズたちはチュイルリーを発った。
陰鬱な宮殿に押し込められてから、実に八ヶ月ぶり。この日を心待ちにしていた。
ただ不満なことがある。
「来月にはパリに戻らなくちゃいけないなんて、ティニも嫌よね?」
行きの馬車の中、隣にいる親友に話しかけると、
「テレーズ、そういうことは口に出すんじゃない」
向かいに座る父に、たしなめられた。
この馬車に乗っているのは三人。
母と弟、叔母と養育係は、別の馬車だ。
革命への非難を口にしてはいけない、自分たちの身を危うくすると、両親から言われている。
そのせいで、テレーズたちは、言いたいことを言葉にする自由が奪われていた。
「馬車の中でも、だめなのですか?」
「……分かった。馬車の中だけだぞ」
顔をしかめていた父だったが、許可をくれた。
テレーズが今こぼした不満は、来月には一旦パリに戻らなければならないこと。
革命一周年の記念式典に出席するためだ。
(なにが記念よ。人殺しをした日を祝うだなんて信じられないわ)
声に出して言いたかったが、車内の雰囲気が悪くなりそうで、思いとどまった。
その代わり、
「革命を非難したらいけないのに、お父様への悪口は野放しにされています。宮廷では普通、逆なのでは?」
以前から、父に言いたかったことだ。
隣から親友の視線を感じても、テレーズは気にせず、まっすぐと父のことを見つめる。
「言わせておきなさい。世の中には、そういう人間もいる」
「そういう人間も、というより、そういう人間ばかりです」
静かになる車内。交わる父と娘の視線。
ややあって、父がわずかに目を細めた。
「どんなに聞き苦しい言葉で人を傷つける者であろうと、すべての臣下と女官、そして臣民……いや、国民たるフランス人の胸には良き心がある。それを忘れないでくれ」
大きな手がテレーズの頭に乗る。
続けて父は、ティニもな、と言って親友の頭にも手を乗せた。
子供扱いされたようで、テレーズは面白くない。
父から顔を背け、窓の方を向いた。
【32. 嘆かわしいと、その人は言う 前編】




