26. この家で過ごす最後の日
両親の仲がぎくしゃくしている。
その空気を、テレーズは肌で感じるようになった。
父は再びプチ・トリアノンへ来てくれるようになり、母もここで過ごす時間が長くなった。
ただ二人とも、以前と様子が違う。
以前は、父の馬車がここへ来れば、子供たちだけでなく母も部屋から出てきて、父を迎えた。
今、出迎えをするのは子供たちだけ。
父と母は互いを避けている。
顔を合わせることがあっても、ほとんど言葉を交わさない。鉢合わせして気まずいというような顔をして、どちらかがその場から立ち去ってしまう。
子供たちに対しては、父も母も、これまでどおり優しい。
勉強の進み具合を見てくれたり、晴れている日は外へ出て、弟が育てている花の成長を一緒に観察したり。
そうやって過ごすのは、二人とも同じだ。
だが両親の変化に気づかないほど、テレーズは鈍くない。
そして確信していた。
原因は他でもない、フェルセンの存在なのだと。
現に、あの男は近頃ヴェルサイユにいる。
つい四日前、フランドル連隊の歓迎パーティーが行われ、テレーズも出席した。
会場には、あの男の姿もあったのだ。
秋色に包まれたプチ・トリアノンの庭園。
テレーズは、親友と一緒に、弟の相手をして遊んでいる。
そうしながらも、周りの様子をうかがっていた。
この場には、養育係や何人かの女官がいる。彼女たちから不審に思われないように。
頃合いを見計らい、
「思い出した。やりかけの宿題があったんだわ」
テレーズは口を開いた。前もって考えていた言葉を、あたかも今思いついたかのように。
「部屋に戻るわね」
「ええ、分かったわ」
そう答えたのは親友。事前に協力を頼んでいた。
親友は、弟に向き直る。
「シャルル、テレーズにはやることがあるんですって、わたしたちでココと遊びましょう」
はあい、という弟の無邪気な声。
テレーズがその場を離れようとすると、養育係に呼び止められた。
「お昼ご飯は、お部屋にお持ちしましょうか?」
「そうね……その時間までに終わらなかったら、持ってきてちょうだい」
どう答えようか束の間迷ったものの、適当に返事をした。
宿題というのは、もちろん嘘。
テレーズが向かった先は、母の部屋。
幸い、そこには母しかいなかった。
「どうしたの、テレーズ」
「お母様と、お話ししたいことがあります」
今こそ確かめる時だ。父とのことを、そしてフェルセンのことを。
そう思うのに、
「何の話?」
「……」
言葉が声にならない。
聞き返されても返事が出来ず、下を向いた。
どんな答えが、母から返ってくるのだろう。
父のことは、もう好きではないと言われてしまったら?
そんなことを言われてしまえば、テレーズはこれまでどおり、母と接することが出来なくなる。
「ひょっとして、何か悪いことをして、謝りに来たのかしら」
(悪いことをしてるのは、お母様の方でしょう?)
心の中で言い返した。
テレーズは、ずっと考えていた。
王家の人々の中で、なぜ母ばかりが悪者扱いされるのか。
フェルセンと恋仲にあるせいだ。
結婚相手の他に好きな人を作るのは、神の教えに背くこと。
愛人が何人もいるだの同性愛者だの、ありもしない話が広まったのは、きっとそのせいだ。
それだけではない。
神の教えに背いたせいで天罰が下った。
ジョゼフやソフィの死は、きっとそのせいだ。
このことを娘から指摘すれば、母は目を覚ましてくれる。
あの男と別れ、父と仲直りをしてくれる。
ひいては悪者扱いもされなくなる。
テレーズが思いの丈を口にすれば、事態はきっと良い方向に向かうはずだ。
再び顔を上げ、母のことを見た。
「そ、そういえば、ココはもうすっかり、わたしたちと仲良しですよ」
心の中では言い返せるのに、口には出せない。そのうえ自ら話をそらしてしまった。
母は不思議そうな顔をしたものの、ふっと微笑んだ。
「あなたたちの寂しさが紛れているなら、ココはきっと、神様がお与えくださった贈り物ね」
「お父様も喜んでいます。ティニもシャルルも、よく笑うようになったって」
「そう……」
父のことを話に出した途端、母の笑顔が消えた。
テレーズの確信は一層強くなった。
やはり、あの男が母に言い寄って、母のことを父から奪おうとしているのだ。
これは家族の危機。
子供たちの中で、両親と最も長い時間を過ごしてきたテレーズが、抗議の声を上げずしてどうする。
テレーズも親友も弟も、父が大好きだ。
母にすり寄って来る北方人のことは、好きでも何でもない。
娘から言いたいことは、それこそ山のようにある。何もかも吐き出して、母にぶつけたい。
それなのに、ひとつも伝えられない。
「テレーズ、何の話をしに来たの。黙ったままでいても分からないわよ」
顔をのぞき込まれ、テレーズはハッとした。
よく見ると、母の顔は皺だらけ。
母は疲れているのだ。
そのことに気づいてしまえば、心の中で言い返すことさえ出来なくなった。
「お母様の顔が見たくなったんです。本当に、ただそれだけです」
母の呼び止める声は無視し、部屋を後にした。
黄色や茶色の葉を踏みしめながら、テレーズは来た道を戻る。
向こうから聞こえるのは、弟のはしゃぐ声とココの鳴き声。
出会った頃は、子犬だったココ。
今はすっかり成犬らしくなった。ぱたぱたと揺れる、垂れた耳と長い尻尾。赤茶色の長毛に覆われた体。
走り回るココ、それを追いかける弟、さらにそれを追いかける女官たちが何人か。
少し離れたところに親友が立っており、養育係が控えている。
テレーズは親友の隣に並んだ。
親友がこちらを見る。もう終わったの、と言いたそうな顔だ。
「宿題は終えられたのですか」
「ええ、やりかけていた分は少しだったから、すぐに終わったわ」
養育係に尋ねられ、また嘘を吐いた。
母に話をしようと決めていたことは、結局何も言えなかった。口裏合わせまでしたのに、あとで親友にどう報告しよう。
「テレーズは追いかけっこに参加しないの?」
親友が、弟のいる方を示す。
「走り回るなんて王女らしくないわ。それに、わたしはもう子どもじゃないもの」
「近ごろのテレーズの口ぐせね。もう子どもじゃないって」
口癖。確かにそうかもしれない。
まだ体は子供でも、心は大人のつもりだ。
「ティニこそ、参加してくれば?」
「今日は、ちょっと……」
親友は言葉をにごし、頬を赤らめる。
「あんまり動きたくない日」
小さくなった声と遠回しな言い方で、テレーズは察した。
親友の体に来たものが、テレーズにはまだ来ていない。これは両親の問題以外で、今とりわけ気を揉んでいることでもある。
自分は、いつ大人の体になるのだろう。
着替えのとき、何気なく自分の体を見るが、胸はまだふくらみがあるかどうかも分からない。
親友の方が成長していることは、同じ部屋で着替えた時に確認済みだ。
養育係や女官たち、叔母エリザベートは、服の上からでも女性らしい体つきだと分かる。
テレーズの体はコルセットを装着したところで、大人たちのようにはならない。
まして母の大きな胸とは似ても似つかない。
焦ったり不安に思う必要はないと母から言われたが、気にならないわけがない。
そういえば、親友は大人の体になったちょうどその日に、ベリー公から告白された。
親友の恋について、テレーズはもっと話を聞きたかった。彼のどこを好きになったのか、一緒に過ごした時間の思い出などを。
だが親友から話を聞けたのは、たった一度きり、涙ながらに打ち明けられた時。
それ以後こちらから尋ねても、
『この恋は終わったの』
と言われ、話してもらえない。
ただテレーズは知っている。
親友の部屋には、ベリー公との思い出がしまわれている。
レッスンで使っていたスケッチブックや、彼が親友の姿を描いた絵。親友は時々それらを取り出しては、切なそうに眺めていることを。
この恋は終わったと本人は言うが、きっとまだベリー公のことが好きなのだ。
確か、想い人が言っていた。三ヶ月くらいで帰ってくると。
アルトワ伯一家がヴェルサイユを発って、かれこれ二ヶ月半。もうすぐ帰ってくる頃だろうか。
親友とベリー公が再び顔を合わせたら、もう以前のような二人ではなく、互いによそよそしい態度になるのだろうか。
そんな二人の姿を、テレーズは見たくない。
想い人との再会が嬉しくても、素直に喜べない。
両親ばかりか、親友もこうした状態。
それゆえ、テレーズは自分の将来のことを、父にも母にも話せずにいた。
アングレーム公との結婚という願いを、もうそろそろ伝えたい。
だが親友や両親を差し置いて、自分だけ幸せになりたくはなかった。
「あねうえー、ティニあねうえー」
遠くから呼ぶ声。
「シャルルのところに行きましょう」
親友に言われ、テレーズは気を取り直して歩き出した。養育係も後に続いた。
芝生に座り込む弟。その膝の上にはココ。近くには、息を切らす女官たち。
「ご婦人がた、大丈夫ですか」
庭園を警備している守衛が近づき、女官たちに声をかけた。彼はプチ・トリアノンでよく見かける顔だ。
一方、女官たちをへとへとにさせても、弟とココには疲れている様子がない。
「しんはっけんです」
弟は何やら嬉しそうだ。
テレーズと親友も、その場で身を屈めた。
「何が新発見なの?」
「耳の中に、ほくろがありました」
弟がココの垂れ耳をつまみ、めくった。
確かに、耳の裏側に黒い点がある。
「まあ、本当だわ。よく見つけたわね」
親友に褒められた弟は、得意げに笑う。
「ブラッシングをするたび、珍しい所に、ほくろがあると思っておりました」
女官の一人が、息を切らしながら答えた。
弟は毎日ココのブラッシングをしているが、子供一人では心もとないため、女官が手伝っている。その時に見つけたのだろう。
「ぼくがさいしょに見つけたの」
口をとがらせる弟。第一発見者が自分でなかったのが、お気に召さないようだ。
不機嫌そうにする弟を、女官たちがなだめる。
そこでテレーズは、いいことを思いついた。
「シャルル、質問よ。ココのほくろがあるのは右耳、左耳?」
弟は、もう右左の区別がつく。
ココと弟が向かい合った状態では、互いの右左は逆になるが、弟にはそれが分かるだろうか。
弟はココから手を離すと、自分の両耳に手を添える。
そして元気よく、右耳と答えた。
正解だ。
最近、庭園で見かける守衛の数が減った。
そのことについて、父がこう話していた。
『王家に仕える者たちは、国から給料をもらっている。だが今この国にはお金がなくて、彼らに十分な給料を与えることが出来ない。だから雇う人間を減らしているんだ。臣民の生活を、これ以上圧迫しないようにな』
この国に暮らす人々のことを、父はちゃんと考えている。
それなのに何故、革命家たちといいオルレアン公といい女官たちといい、父に悪意を向けるのだろう。
誰も彼も、恩知らずばかりだ。
【26. この家で過ごす最後の日】
≪補足≫
主人公やエルネスティーヌの第二次性徴に関する描写は創作。
≪養育係について≫
史実では、ポリニャック夫人が辞した後、トゥルゼル夫人という女性が後任になりました。前者の知名度に比べたら、後者はほぼ無名の人。
ただし本作には、ポリニャック夫人もトゥルゼル夫人も登場しません。
本作の養育係は、モブのような人物として書いています。途中で別の人に交代せず、同じ人が務めているという設定。
また名前が出てこない女官たちもモブです。
≪余談≫
作中では書かない話。
トゥルゼル夫人が新たな養育係になったことを受け、ママ王妃は夫人に、自分の子供たちに関することを事細かに伝えています。
その中で、ママ王妃は「誕生以来一緒だった男性は、まったく取るに足りない人たちでした」といったコメントを残しています。
あくまで作者の私見ですが、これを文字通りに受け取って「マリー・アントワネットの子供たちにとって、ルイ十六世は価値のない存在だった」と見なすべきではないと思います。
ママ王妃が連れ合いに対して毒を吐くのは、これに限ったことではありませんが、このコメントに関していえば、
「もしも私という母親がいなかったら、夫は子供たちのことを、ただただ甘やかすに違いない。たとえ『口うるさい方の親』と我が子に思われようとも、子供たちのしつけをするのは、母親である自分の役目」
と自負する気持ちだったのではないでしょうか。
※主人公の両親の呼称については第21話解説より。




