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25. 世界中の誰も知らないこと

 …………。




 アングレーム公は、王と二人で会うのを止めようと決めた。


 つい先日、母がヒステリーを起こした。

 王夫妻の子供たちに近づくなと言い出し、反抗した弟を引っ叩き、その場に泣き崩れた。


 書庫で王と過ごしていることについて、アングレーム公は今のところ、両親を含む周りの大人から咎めは受けていない。


 黙認されているのか、知られていないのか。

 前者であってほしいが、後者だとしたら、ばれたときにはアングレーム公も弟のようになる。





 そして、この日。

 書庫で会った王は、いつもと違っていた。どこか疲れている様子だった。


 その姿を見ていると、こちらから話を切り出しづらくなる。書庫に来るのを、今日で最後にするつもりだと。


 ここで過ごす時間は互いに約束したものではなかったが、何も言わずにぱたりと来なくなっては、さすがに不審がられるだろう。


『王とは、孤独で無力なものだ』


 先に口を開いたのは、王だった。


『気弱で優柔不断であると、多くの者が私を非難していることは知っている。だが誰も、今の私の立場に置かれた者はいない……と書かれた手紙が王から届いたら、アングレーム公はどう思う』

『僕ですか?』

『返事に困るだろう。こんなことを自分宛ての手紙に書くな。王のくせに泣き言を言うなと』


 アングレーム公には難しい質問だが、自分なりに思ったことを答える。


『それだけ陛下は、大変なお立場にあるのだと思います』


 王が唇を持ち上げた。


『実はな、今言ったことは、フェルセンに宛てた手紙の中で私が書いたことだ』


 聞き間違いであろうか。

 アングレーム公の頭が混乱するのをよそに、王は独り言を言うように続ける。


『フェルセンには悪いことをしたと思っている。手紙を出してから気がついたが、こんな内容のものを受け取ったところで、向こうも返事に困っただろうに。だが彼はいつものように、丁寧な励ましの言葉をくれたよ』


 アングレーム公は思った。

 王が自ら、彼の名前を出したのなら、こちらから尋ねても構わないだろう。

 ずっと気になっていたが、決して聞いてはいけないと思っていたことを。


『陛下は、王妃様とフェルセンのことを、どうお考えなのですか』

『あれは然るべき結果だ』


 こちらをまっすぐと見て、王は答えた。


『お二人の仲を認めておられると?』

『私が頼んだからな。妻を満足させてやってくれと』


 今度も聞き間違いではない。

 アングレーム公は、とうとう言葉を失った。


『この国、ヴェルサイユの人間にとって、結婚とは跡継ぎを作るためのもの。そして恋愛は愛人とするもの。だから信頼できる相手に任せたんだ』

『……テレーズは知っているのですか?』


 王が小さく笑った。


『知るわけがないだろう。愚かな大人の秘密は墓場まで持っていくさ』


 だとしたら、王妃はどうなのだろう。

 王がフェルセンに頼んだことを、王妃は知っているのか。

 あるいは知らないまま、フェルセンと愛人関係になったのか。


『こちらから話をしておいて何だが、今言ったことは口外しないでくれ。君は口が固そうだから、それを見込んでいるんだ』

『……もちろんです』

『まさか君にまで、愚痴や秘密の話をしてしまうとは。君とこの書庫にいると、いろいろなことを語ってしまうな』


 書庫で過ごすうちに、アングレーム公にもいくらか分かるようになった。王の本当の人柄や、何を考えているかが。


 だが、この時ばかりは分からなかった。王が今どんな気持ちで、こんな話をしているのか。


『陛下は、王妃様のことをどう思われているのですか』


 思いきって尋ねると、穏やかな笑みがこちらを向いた。




 …………。




 馬車に揺られながら、振り返っていた。あの書庫で過ごした最後の日のことを。


 窓の外は薄暗い。七月の太陽がもうすぐ沈みそうだ。


 四人掛けの馬車には、アングレーム公と弟、向かいの座席にはセラン侯爵が乗っている。

 隣を見ると、弟の寝顔。

 ヴェルサイユを発った日は泣き腫らした顔だったが、さすがにもう泣いてはいない。


 そういえば、あの日は弟だけでなく、従妹も泣いていた。

 別れを惜しみながら無理して浮かべたのであろう笑顔が、今もアングレーム公の脳裏に焼きついている。


 父が先んじてヴェルサイユを離れ、自分たち兄弟と、そして母が続いた。

 道中で聞いた話では、ポラストロン夫人だけでなく、コンデ家やいくつかの貴族の家もフランスを離れているという。


 弟がしゃべらないと静かな車内。

 アングレーム公は窓の外を眺めながら、また思いをめぐらせた。


 書庫で会わなくなり、二人きりで話す機会がなくなっても、甥として伯父を慕う気持ちは変わっていない。

 たとえ王に対するどれだけの非難や悪口が、耳に入ってこようと。


 あの場所で過ごすときだけは、明るい性格の弟と比較されることなく、あるがままの自分でいられた。

 貴重な時間を与えてくれたのは、他でもない伯父ルイ十六世だった。


 それでも書庫から一歩でも外に出れば、この気持ちにふたをした。


 胸の内をさらけ出そうものなら、周りの大人たちは、アングレーム公のことを頭ごなしに押さえつける。そして、ここぞとばかりに、王に対する悪意ある言葉を聞かせてくる。

 そのことが、分かりきっていた。


 せめて弟ほど口達者であれば、大人たちの言い分に歯向かえるのだろう。

 同じ兄弟でも、アングレーム公にはそんな度胸も能力もない。


 フランスを離れて国外へ行けば、自分を取り巻く環境はきっと変わる。重苦しい空気から、多少なりとも解放されることを期待している。


『愛しているとも。妻も子供たちも、私の家族だからね』


 あの日、王妃のことをどう思っているのかと尋ねた時、王は迷う様子を見せずに答えた。


 王に愛人がいるという話は聞いたことがない。

 つまり、王の愛する女性は王妃一人だけ。

 ならば何故、満足させてやってくれと他の男に頼んだのか。

 満足させるという言葉が、この場合どんな意味を持つかは、アングレーム公にも何となく分かる。


 愛しているというのは、家族としての気持ちであり、夫婦としての気持ちとはまた別なのか。


 さらに質問すれば、詳しい答えが聞けたかもしれない。だが深掘りしてはいけないと思い、それ以上は尋ねなかった。


 アングレーム公はもうすぐ十四歳。すでに成人王族とされる年齢。

 それでも王の心情を理解できないのは、まだ自分が子供だからなのか。


 いずれ妻を迎える頃になれば、分かる日が来るのだろうか。




【25. 世界中の誰も知らないこと】


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