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100. 叔父と姪の盟約 前編

 小屋に戻ったテレーズは、毛布にくるまり、横になった。


 どうしてと自問していた。


 マリ神父の急死。おそらく服毒自殺。動機は分からない。

 ただ、息絶える間際の彼が「ショワジー嬢」と口にした理由なら憶測できる。


(マリ神父は、アンヌのことを……)


 テレーズに向けられた、先ほどのマリ神父のまなざし。目の前にいた相手を、ダグー夫人と見間違えていたかのような。


 こんなしゃがれ声と彼女の声を、普通なら間違えない。

 だがマリ神父は、あれほど苦しみ悶えていたのだから、普通の精神状態ではなかったのかもしれない。


 そういえば、マリ神父は先ほど、ダグー夫人とは呼ばなかった。ショワジー嬢と呼んだ。


 ショワジー嬢は結婚後、周りからダグー夫人と呼ばれるようになった。マリ神父も、彼女のことをそう呼んでいたはずだ。


 そこで、テレーズは思い至る。


 彼女が結婚する前から、マリ神父は彼女に想いを寄せていたのではないか。

 マリ神父の中では、彼女はダグー夫人ではなく、ショワジー嬢のままだった。

 人の目があるところではダグー夫人と呼んでいたが、心の中ではショワジー嬢と呼び続けていたのではあるまいか。


 本人亡き今となっては、真実を確かめるすべはない。だがもし仮に、許されぬ恋が自殺の原因だとしたら。


 テレーズのせいだ。


 ショワジー嬢をミタウまで付き従わせてきたのは、他でもないテレーズだ。

 自分が知らず知らずのうちに、マリ神父のことを苦しめ、死に追いやってしまったのだ。


 今になって気づいたことに愕然とする。全身が震えるような感覚に襲われ、両手で毛布をきつく握りしめた。


「いつまで、ふて寝をしているつもりだ」


 背後から聞こえた王の声。姪に呆れているような物言い。

 テレーズの心は、ますます乱される。


 マリ神父が亡くなった時、王はダヴァレー伯やセラン夫人と共に、この小屋にいた。

 亡骸が小屋の前まで運ばれてきた時こそ、王はたいそう驚いた様子を見せた。だが服毒自殺かもしれないと聞くなり、いやに冷静な態度になった。


『この者が自ら命を絶ったことは、おおやけにしない。そなたたちにも一切の口外を禁ずる』


 その場にいた面々から理由を尋ねられると、


『宮廷司祭が毒を呷って自殺したことが、明るみになってみろ。我々にやましいことがなくても、政敵からすれば格好の攻撃材料になる。これは王の命令だ』


 冷静というよりは、冷淡にそう言い放った。


 マリ神父は長くブルボン王家に仕えていただけでなく、ミタウでは王の秘書も務めていた。王にとっても関わりの少ない人物ではなかったはずだ。


「陛下は、悲しくないのですか」


 テレーズは背を向けたまま、王に尋ねた。


「自分で自分の命を終わらせた者のことは忘れろ」


 慈悲のかけらもない言葉。

 これがルイ十八世、プロヴァンス伯という人間。


 テレーズはもう何年も前から知っていた。この男が、外面がいいだけの猫かぶりであることを。

 サン・クルーで過ごした十一歳の時から、知っていた。

 あの秋の日、テレーズの父を前にして、この叔父は化けの皮を現した。その時のテレーズは、親友に制されて扉の向こうに隠れていた。

 今は違う。

 大人の醜さを前にして、ただ黙っているだけの子供ではない。


 体を起こし、王に向き直った。

 まだ消されていない焚き火が、目の前にいる非情な男を照らしている。


「なんだ、余の言うことが気に食わないと言いたそうだな」


 かくいう王も、姪のことが気に食わないと言いたそうだ。


 今この小屋には、テレーズと王の二人しかいない。

 他の面々は、ここから離れた場所まで埋葬に行くと言っていた。腰巾着(ダヴァレー)までが王の近くにいないのだから、ちょうどいい。


「自殺のことは、おおやけにされないのですね?」

「先ほど、そう言ったであろう」

「でしたら、私がこれから申し上げることも、決して口外なさらないでください」

「どうした、急に改まって」

「彼が亡くなる間際、私は彼のすぐそばで最期の言葉を聞きました。おそらく、あの場に居合わせた者の中でも、私しか聞いていないことでしょう」


 息を引き取るその瞬間まで、彼が想い続けたに違いない女性の名前。

 テレーズがそれを教えると、王は驚いた顔をして固まった。

 だがそれも束の間、


「若い人妻に邪恋とは。顔に似合わず、といったところか」


 唇を持ち上げて冷笑を浮かべた。


「そういえば、そなたは何かされなかったか」

「……何か、とは?」


 会話の流れからして、きっとろくな言葉は続かない。それでもテレーズは怒りを抑えて聞き返した。


「告解部屋で二人きりになった時」

「ふざけないで!」


 感情を制御できたのは、わずかな間だけ。


「あなたのような人に、こんな話をした私が馬鹿でした」

「そうわめくな。そなたは生娘ゆえ知らないのだろうが、聖俗かかわらず男とはそういうものだ。意中の女がいれば、妄想の中で、その女の着ている服を脱がせる。あの色惚け神父もそうやって」

「何の話ですか!」


 にわかに飛び出した猥談(わいだん)

 テレーズは慌てて相手の話を遮り、顔を背けた。


「余は正しいことを言っているだけだ。聖母を除くすべての女は、男が欲情するからこそ受胎できるのだからな」

「破廉恥だわ」

「それが男と女だ」


 話の内容が、正しいか間違っているか以前の問題だ。若い姪を前にして、恥ずかしげもなく聞かせること自体がどうかしている。


 非情なだけでなく淫りがましい。こんな男と口論を続けても、気力と体力を浪費するばかりか、テレーズまでが品位のない人間になってしまう。


「私は疲れたので寝ます」


 王に背を向け、再び横になる。

 ようやく静かになった。こちらが譲歩して口論が終わるなら、感情的になるだけ無駄だった。


「テレーズ、よく聞け」


 まだ何か言うつもりか。テレーズは、今夜はもう王と口を利かないと決めた。


「死んだそなたには何の価値もない。だが余の目があるところで、野垂れ死にされるよりはましだ」


 真剣な話でもするような口調で、王は話し始める。


「そう思ったからこそ、ペテルブルクで他に男を作る可能性があろうと、それこそ現地の宮廷でろくでもない陰謀に巻き込まれるおそれがあろうと、帝都へ行けと言ったのだ。それなのに、のこのこと付いてきおって」


 よいか、と王は続ける。


「余は王冠を手にするまで決して死なない。そなたも自ら付き従ってきた以上、死ぬことは断じて許さない」


 死んだテレーズには、何の価値もない。

 王が姪のことを生かそうとするのは、政治的な利用価値、ただそれだけのため。

 そのことはテレーズ自身が一番に分かっている。




■■■




 マリ神父を埋葬(断じて死体遺棄ではない)した翌日、ルイ十八世と従者たちは、雪の中を歩き出した。


 この日は幸い、地元の下級貴族の住まいに泊まることが出来た。

 フランス王が突然訪問してきたことに、相手側はたいそう驚いていたが、一行の身の上を明らかに哀れんでいた。


 翌日、一行は小さな町にたどり着いた。

 ここでの宿は、酒場に併設された安宿。

 部屋は粗末で汚いうえ、そこらじゅうが酒臭い。安宿ゆえに治安が悪く、おちおち寝ていられなかった。

 おまけに失意の一行は、地元の酔っ払いから指をさされて笑われる始末。


 かつてないほどの不快極まりない一夜を過ごし、夜明け前に宿を後にした。


 ミタウを発った当初は、目の前に広がる雪に対して殺意を覚えていた。だが旅も四日目になると、そうした感情が生まれる気力さえ湧かない。

 道中ではソリを手に入れることも出来ず、連日徒歩を余儀なくされている。


 女二人に支えられ、引きずられる王の両足には、すでに感覚がない。

 凍傷というのは北国の百姓が患うものだと思っていたのに、ヴェルサイユで生活していた王族が何故このような目に。


「おのれ、パーヴェルめ……」

「いかがされました、陛下」


 恨み言はこぼせるが、姪の言葉に答える気力は残っていない。


「あと二日です」


 こちらが何も言わないと、姪はまた前を向いた。


「ちゃんと進んでいれば、明後日には国境。プロイセン領に入ります」


 ですから、と姪は続ける。


「陛下も生きてください、絶対に」


 力強い言葉、気丈さ。

 ミタウを離れることを伝えた時から、姪が見せてきた姿。

 それは確かに、一行にとって心強いものではあるが、


(この娘、何を企んでいる)


 王は不自然さを覚えていた。


 姪は、ルイ十八世のことを好いていない。日頃示す敬意が上辺だけのものであることは、ミタウで再会してから、ほどなくして気づいた。


 だからこそ折に触れて、姪に教え諭してきた。

 ルイ十八世が、いかにルイ十六世より優れた人間であったか。王になるべくして生まれてきた男であったかを。

 もっとも、そうした話をいくら聞かせても、姪の態度は相変わらずだったが。


 追放命令を受けた時、王は思った。自分に付き従うことを、姪が望むはずがないと。


 姪はペテルブルクに招かれている。また姪自身も王に随行することを拒む。

 そんな状況で、行き先の決まっていない旅に姪を連れていき、寒さの中で死なれようものなら、どうなるか。


 タンプル塔の孤児を死なせた責任を問われるのは、他でもないルイ十八世。

 ルイ十六世が妻子の身を守れなかったことを、今もなお非難され続けている、その二の舞になりかねない。


 だからこそ、姪にペテルブルクへ行けと命じた。

 ところが姪は、王の命令を強く拒んだ。


 そして今も、一行の中で誰よりも活力を失っていない。気落ちした姿を見せたのは、マリ神父が亡くなった日の夜だけだった。


 王のすぐ間近にある横顔。

 透き通るほどに白い肌は、寒さのせいで鼻先が赤くなっている。

 ほつれて顔に張りついた髪を除けることもせず、ただ前を、自分たちが進む方向を見ている。


 一体何が、姪をこうまで突き動かすのか。


「私の顔に何か付いていますか」


 こちらの視線に気づいたのか、姪は前を向いたまま口を開いた。


「そなたは、母親に似ていないな」

「……突然いかがしました」

「思っただけだ」

「顔の話ですか?」

「そうだな。性格については、今のところはだ」

「今のところは?」

「そなたの性格が母親に似てしまったら、アングレームが哀れな夫になる」


 姪がふっと唇を持ち上げた。


「おしゃべりを出来るくらいの気力が残っているなら、大丈夫ですね」


 それと、と姪は続ける。


「私は、父に似ていると言われた方が嬉しいのです」


 耳を疑った。

 愚兄に似ていると言われることを、不名誉だと思うどころか嬉しいと。


「母が不貞を働いた結果の子供だと言われるより、ずっと」


 姪の言葉はそこで止まった。


 前方から、ユー男爵の張り上げる声がした。

 あれは集落じゃないか、と。




【100. 叔父と姪の盟約 前編】


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