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99. 白い世界に散った恋

 テレーズは黒く覆った部屋から出て、旅支度に専念した。


 ココは臣下に預け、先発隊として出発させた。テレーズとしては、少しでも長くココと共にいたかったが、名残惜しさは振りきった。

 父の命日を前にして一人部屋にこもっていた間、ココの世話は臣下に任せていた。命日が過ぎて気持ちが回復したら、またこれまでどおり一緒に過ごすつもりだった。

 それがまさか、こんな事態になるとは。


 またダグー夫人は、ミタウの女子修道院にかくまわれることになった。総督に頼み込んで特別に許可してもらったが、ペテルブルクの許可は得ていない。


 道中ココが無事であるように、ダグー夫人とお腹の子に災いがふりかからないように、願ってやまない。


 旅支度をするテレーズの元に、何人かの臣下や女官がやって来た。

 彼らは言った。ミタウを発つのは、追悼ミサに参列してからにしたいと。


 テレーズには彼らの真意が分かった。


 ここはルイ十八世の宮廷。ルイ十六世の不幸を心から悼んでいる者はほとんどいない。テレーズの機嫌をとるために、彼らは追悼ミサを利用しているのだと。


 だからこそ、テレーズは強く命じた。ミサのことは気にせず、支度を終えた者から出立するようにと。

 食い下がる者は一人もいなかった。





 追悼ミサを執り行った、翌早朝。

 夜が明けきらないうちに、空を覆う雲が、新たな雪を降らせ始めた。


 向かう先は、隣国プロイセン。

 追放命令が出されたその日のうちに、国境の町へ早馬を遣わせていた。

 本来であれば、現地での滞在許可を得てから出立するのだが、今の自分たちにそんな余裕はない。一刻も早くロシア領を出なければならない。


 ミタウ宮殿を出るのは、テレーズたちが最後。

 一行の馬車は二台。

 それぞれの御者台に座るのはユー男爵とダグー子爵。

 前方の馬車に乗るのは、王とダヴァレー伯、マリ神父。

 後方の馬車にはテレーズとセラン夫人、ほか臣下が二人同乗する。


 王に付き従う一行の中で、司祭はマリ神父だけ。

 エッジワース神父も随行を願い出ていたが、聞き入れられなかった。

 彼は王より十歳上。従者が老体では、王を助けるどころか、旅に支障をきたしかねない。


 二台の馬車が走り出す。御者の声と、鞭打つ音、馬の(いなな)き。

 行き先未定の旅が始まった。


 車内は、外とほとんど変わらない寒さ。そのうえ隙間風が入ってくる。防寒具を着込んでいても凍えるようだ。


 宮殿の建つ島を出て、川を渡り、街道を進む。窓の外に見える城塞都市が段々と小さくなる。


 一月の太陽がようやく昇ったのか、辺りはすでに明るい。

 だが天候は回復しない。

 テレーズは不安な気持ちで、外を眺めていた。


(これが、ミタウの冬……)


 ふと思った。

 自分は今まさに、初めてこの地の冬を見ているのだと。


 ミタウに来てからというもの、テレーズは部屋にこもってばかりいた。

 屋外へ出ることはあっても、島の中より外には行かない。冬になれば、屋外に出ることさえなかった。


 この地の気候は、ロシア帝国内では温暖な方。より内陸へ行くとさらに過酷な寒さだと、話に聞いている。

 そんな場所に暮らす人々は、今の時季、一体どんな生活をしているのだろう。馬車を調達できないような貧しい家も、世の中にはたくさんあるはずなのに。


 そういえば、テレーズがまだ子供だった頃。

 毎年冬、母から話に聞いた。新品の人形やおもちゃを、貧しい子供たちへ贈るのだと。

 あの話を聞いていた頃の自分は、想像したことがあっただろうか。貧しい人々が冬にどういった暮らしをしているのか。


 テレーズは、あの頃と変わっていない。

 暖炉で暖められた部屋で過ごせるのを当たり前のことだと思っていた、世間知らずのお姫様だった頃と何も変わっていないのだ。


 そう思い至った矢先、馬車が停まった。


 何かあったのか。テレーズは同乗者たちと顔を見合わせた。


 前方の馬車も停まった。御者台から降りたダグー子爵が、ユー男爵と話をしている。

 しばらくして、険しい面持ちの子爵がテレーズたちの元にやって来た。

 扉が開かれ、寒気が車内に流れ込む。


「この雪では、馬車でこれ以上進めません」

「まさか歩けっていうの?」


 セラン夫人が非難めいた声を上げ、臣下二人も同調する。


 前方の馬車からも、とげとげしいやり取りが聞こえてきた。

 ふざけるな、歩けるわけがあるまい、という王の怒鳴り声。陛下に無理をさせるつもりか、とダヴァレー伯の加勢する声も。

 ユー男爵が彼らをなだめているようだ。




 そののち。

 一行は王を説得して、雪の中を歩くことにした。


 歩き始める前、テレーズは、王から再度ペテルブルクへ行くよう命じられた。だが否と言い張った。


 馬ともども馬車は捨て置く。

 積んでいた荷物は、王以外の男性陣が手分けして運ぶ。

 テレーズとセラン夫人は荷物を持たない。その代わり、王を支えて歩く。王の両脇に左右から腕を差し入れて。


(少しは痩せなさいよ、クソデブ)


 歩き始めてから、テレーズは心の中で悪態を吐き続けた。こうでもしていないと極寒地獄に耐えられない。


(お父様は、どんな惨めな姿だった時でさえ、ちゃんと自分の足で歩いてたわ)


 雪を踏み分けながら一歩一歩進む。冬用のブーツを履いているが、爪先にはすでに感覚がない。

 別の馬車で出立した者たちも見当たらない。日が落ちているのか、辺りは段々と暗くなる。


 野宿。遭難。凍死。

 これらの言葉が、たびたびテレーズの脳裏をかすめた。

 その時、


「あれは家じゃないか!」


 先頭を歩くユー男爵の声に、正気を取り戻した。


 暗くなりつつある、灰色の空と白い地上。雪が舞い散る先に目を凝らすと、確かに建物らしきものが見える。民家であろうか。


 わずかばかりの気力が湧いてきた。

 どんなに粗末な場所であろうと、今日の寝床が見つかれば、野宿だけは避けられる。


「早く連れていけ。足が痛い」


 王の訴えに、テレーズはハッとした。


「怪我をされましたか?」

「違う、発作だ!」


 拍子抜けした。痛風の発作だと。


「足が痛い、耐えられん!」

「陛下、暴れないでください」

「もうしばらくのご辛抱ですよ」


 テレーズとセラン夫人で、痛みに悶える王をなだめる。

 急いで王を連れていかなくては。最後の力をふりしぼり、雪原の向こうへ急いだ。


 一行の中で、王はその命が最も重い。それと同時に、最も足手まといになっているのも王であった。




 テレーズたちがたどり着いたのは、民家ではなく、農具の置かれた小屋だった。

 地元民のものであろうか。辺りに家は見当たらないので、無断で使わせてもらった。幸い小屋の中には、全員が座れるほどのスペースはある。


 火を起こし、服を着替え、濡れた服や靴を乾かす。

 体力の要る作業は男性陣に任せ、テレーズとセラン夫人は発作の応急処置をおこなった。


 それから、みなで食事を分け合った。

 万が一のためにと、携帯可能な食事を持ってきたのが功を奏した。大食漢の王は不満顔をしたが、今は非常時だからとテレーズから説き伏せた。


 食事を終えた後は、すぐに寝支度をする。明日に備えて体力を温存しなくてはならない。


 だがその前に、テレーズは用を足すため、セラン夫人を連れて外へ出た。


 テレーズが先に用を済ませ、セラン夫人が後に続く。

 彼女のことを待っている間、テレーズは何気なく辺りを見回した。


 雪は止み、日はとうに沈んだ。

 地上を覆いつくす雪が、夜の闇をうっすらと照らしている。


 神秘的な光景に、思わず見惚れた。

 ただ、ずっと眺めていると、もの恐ろしい錯覚に襲われる。闇の世界へと引きずり込まれてしまいそうな。


 妃殿下、と呼ぶ声。

 振り返ると、セラン夫人がいた。彼女も用を済ませたという。


 二人で小屋に戻る。

 その途中、テレーズの目はあるものを捉えた。

 雪原の先に、人影が見える。

 小屋から離れ、どこかへ向かっているようだ。一行の誰かであろうか。


 テレーズは足を止め、目を凝らして人影を追った。

 遅れて立ち止まったセラン夫人から、どうしたのかと声をかけられる。

 あの人影は従者の誰かだろうかと尋ねるが、夫人にも分からないという。


「中にいる者に聞いてみましょう」


 テレーズは、夫人と共に一旦小屋に入った。


 だが、どうにも人影が気がかりで、テレーズだけで外へ出た。女一人で出歩くのは危険だと分かっていたが、それほどまでに胸騒ぎがしたのだ。


 人影を追い、雪原を踏み分ける。服の裾が雪で濡れてしまっても、今ばかりはどうでもいい。

 しかし思うように進めない。ふくらはぎの下あたりまで積もった雪が、歩みを阻む。


 その間にも、人影はどんどん先へ行ってしまう。


「待って! そこにいるのは誰なの!」


 もどかしくなり、テレーズは声を張り上げた。


 人影が立ち止まった。だが、こちらに背を向けたまま。


 そこへ、後ろから人がやって来る。ユー男爵とダグー子爵、他の臣下二人も。


「マリ神父、どこへ行くのですか!」


 ユー男爵の呼びかける声で分かった。あの人影が誰なのか。


 マリ神父は、その場から動かない。今なら彼に追いつけるかもしれない。

 テレーズは再び歩き出した。

 ところが、


(消えた?)


 マリ神父の姿が突然見えなくなった。

 いいや、よく見ると消えていない。だが様子がおかしい。あたかも雪の上に倒れ込み、その場で転げ回っているかのような。


 男性陣も異変に気づいたようで、急いでマリ神父の元へ向かう。


 テレーズも彼らの後に続くが、歩幅か体力の差か、男性陣に追いつけない。

 今すぐにでも駆け寄っていきたいのに、雪に阻まれる。目の前に広がる冷たい白色が、もはや憎たらしい。

 それでもどうにかして、彼らの元にたどり着いた。


 雪の上に倒れていたのは、確かにマリ神父。だが目のあたりにした光景は、およそ信じがたいものだった。


 マリ神父は、のたうちながら足をばたつかせている。手で喉を押さえて苦しそうな表情を浮かべているのが、暗がりでも分かった。


 しっかりしてください、何があったのですか、と男性陣が彼に声をかける。

 だが返事はない。

 受け答えも出来ないほどに、マリ神父は苦しんでいる。


 すると、いっそう信じがたいことが起こった。


 ダグー子爵が短い声をあげ、雪を背にして倒れ込んだ。見間違いでなければ、マリ神父に蹴り飛ばされた衝撃で。


 あのマリ神父が、人を蹴り飛ばした。苦しみで正気を失ってしまったのだろうか。


 テレーズは子爵の元に駆け寄り、雪の上にひざまずいた。

 ちょうどその時、膝に何か硬い物が当たった。


 手探りで探し、足元にあったそれを拾い上げる。

 透明な小瓶。中身は空のようだ。


(嘘よ……)


 馬鹿な考えが、脳裏をかすめた。


 テレーズは居ても立っても居られず、再び立ち上がる。

 男性陣の制止を無視して、マリ神父に近づいた。今度は自分が蹴り飛ばされるかもしれないが、それでも構わない。


 今なお暴れているマリ神父。その肩を両手で掴み、テレーズはあらん限りの声で彼の名前を繰り返した。

 そうすることで、たった今思い浮かんだ愚考を打ち消そうとした。


 もしも小瓶の中身が毒物だとしたら。

 マリ神父がそれを(あお)ったとしたら。


(そんなこと、絶対に有り得ない!)


 神の教えにおいて、自殺は重大な罪。

 まして彼は聖職者だ。


「マリ神父!」


 何度目かそう呼んだ時、彼の手が喉から離れ、テレーズのコートの袖を掴んだ。

 食い入るような彼のまなざしが、こちらに向けられる。


 その唇が動いた。彼は何かを言おうとしている。

 テレーズは口元に耳を寄せた。


「ショワジー、嬢……」


 かすれた彼の声は、確かにこう言った。


 この場にダグー夫人はいない。なのに何故、マリ神父は彼女の名前を口にするのか。それも結婚前の名前を。


 苦しそうに歪んだマリ神父の顔は、蝋人形のように固まっている。テレーズの袖を掴んでいた手は、いつの間にか離れていた。

 あれだけ暴れていたのが嘘のように、ぴくりとも動かなくなった。




【99. 白い世界に散った恋】


≪作者の私見≫

「昔の王侯貴族は、貧困にあえぐ民衆の苦しみに無関心だった」

 これを現代になぞらえると、発展途上国における貧困の実態やそれが改善されない理由を、先進国の人々が理解しようとしていないのと似てるのかもしれません。

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