98. 追放
一月半ばを過ぎた頃、テレーズは喪服を着る。
自分の部屋も黒をまとう。壁も家具も、すべてを黒い布で覆う。
そして、独りの世界に閉じこもる。
昨年の今頃にも同じことをした。五月と十月には、叔母と母の命日にも。
亡き家族の死を悼むため。
だが本当は、もうひとつ理由がある。
罪滅ぼし。
両親と敵対していた叔父のそばで生きると決めた。そのことを亡き家族に詫びているのだ。
とはいえ、一人で暗い世界にこもっていると、本来の目的から意識がそれるばかりか、考えなくていいことまで考えてしまうものである。
今テレーズの目の前で、家族が険悪な空気になっている。
父のことを責め立てる母。
母は、こう言う。
私が処刑されたのはあなたのせい、私が不幸になったのは全部あなたのせいよ、と。
対する父は、沈痛な面持ちのまま何も言わない。その姿は、チュイルリーにいた頃の、暗く無口だった父を思い起こさせる。
そして、二人から少し離れたところに、アングレーム公がいる。
テレーズの両親のことを眺める、その顔は無表情で、何を思っているのか分からない。
すると、母がアングレーム公の方を向き、彼を指す。
あなたは私の娘を不幸にした、この伯父にしてこの甥だわ、などと言い始めた。
(もう止めて、お母様!)
たまりかねたテレーズは、母を止めに入った。
母は耳を傾けない。それどころか、今度はテレーズのことまで非難し始めた。
あなたは私の娘なのに、どうして母親の味方をしないの。こんな冷たい子に育てた覚えはないわ、と。
驚きと悲しみでテレーズは言葉を失う。
母は娘に向かって、こんなことを言う人だっただろうか。
他方、父もアングレーム公も、だんまりを決め込んでいる。二人ともテレーズのことをかばってはくれない。
まるで、矛先が自分以外の相手に転じて、助かったとでも言うように――。
そこで、テレーズは目を開けた。
黒衣で覆った部屋。父も母もアングレーム公もいない。
今日は一月二十日。明日は父の命日。
そんな日に、なんてことを考えていたのだろう。
これまで見聞きしてきた中傷や不快な記憶。それらは耳ざわりな雑音。
雑音は、ふとした瞬間に顔をのぞかせては、テレーズの心をかき乱す。
さらには、テレーズから大切なものを奪おうとする。両親のことを慕う気持ちや、アングレーム公への想いを。
扉をノックする音。
命日が過ぎるまで、部屋には誰も来ないでほしいと言っていた。
だが追い返すわけにもいかない。
なにせ、やって来た相手は王。孤立無援で闘うテレーズにとって、味方になるどころか苦しみを増幅させる男。
「いかがなさいました、陛下」
部屋に入ってきた王は、いつもと様子が違った。こうも暗い顔をしている姿は、初めて見る。
きっと何か悪いことがあったのだ。
まさか、
「アングレーム公に何かあったのですか?」
彼が戦場で危険な目に遭ったのでは。
王の答えは否。テレーズは胸をなで下ろした。
ならば一体何があったのか。
「他の者には、これから伝えることだが、そなたには先に話しておく」
なんでも、皇帝の使者が王を訪ねてきた。使者はペテルブルクからの命令を伝えにきたという。
その内容が、
「帝国領土から即刻出て行けと」
何がどういうことか、意味が分からない。
王は、手にしていた紙をこちらに差し出した。
書面にはこう書かれている。
ロシア帝国領土からの即時追放、ならびに手当ての支払いを止めると。
今は一月。外は一面の雪。
「ここを離れて、他に行く当てがあるのですか?」
「あるわけがなかろう」
「即時ということは、今すぐにですか?」
「それがパーヴェルの命令だ。しょせん、こんな男だろうと思っていた」
パーヴェル一世に関する良くない話は、テレーズもいくらか耳にしている。帝位に就いて以来、精神に異常をきたしているという。
テレーズはうなだれた。
どんな理不尽な内容であろうと、皇帝の命令は絶対だ。
「そなたはペテルブルクに行け。パーヴェルの使者が今、待っている」
思いもよらない言葉に、顔を上げた。
「何故、私が帝都に?」
「そなたもミタウを立ち退くが、帝都へ招かれている。パーヴェルがどうにかしたい相手は余だけらしい」
王は面白くなさそうな顔で、こちらを見る。
かたや帝都、かたや行く当ての決まっていない旅。どちらにせよミタウには留まれない。
テレーズはどうするか。
楽をするという選択肢は、すぐに捨てた。
「かしこまりました」
「ロシア帝国の都か。まったく、うらやまし」
「どこへなりとも陛下と共に参ります」
王の悪態を遮り、テレーズは宣言した。
「……そなた、まさか余についてくる気ではあるまい」
よほど驚いたのか、王は目を丸くする。
「もちろんお供いたします。陛下の赴く場所が、私のあるべき場所です」
「馬鹿者が! 女と老人が付いてきたところで、足手まといになるだけであろう!」
何故テレーズが怒られなければならないのか。
そもそも王は、自身の姿を鏡で見るべきである。
自立歩行にさえ難儀する、ぶくぶく太った体。そんな痛風持ちの中年男が、健康体の若い姪のことを足手まとい呼ばわり出来るのか。
「そなたはパーヴェルの元へ出向いて、余の言伝を伝えておけ。いつか天罰が下るとな」
付いてこいと命じられるかと思いきや、帝都へ行けと言われた。
予想外の展開だが、ここは相手を説得するしかない。
「陛下のおそばにいなければ、私には意味がありません」
「何故、余の言うことに従わない」
「私たちの決意を知らしめるためです」
王が頑固なら、テレーズも食い下がるまでだ。
「八年前、私の父は、雪が降る寒空の下で、さらし者にされました。父が最期の瞬間まで受け続けた侮辱、その苦しみに比べれば、行く当てのない雪道の旅など大したものではありません」
父が最期を迎えた時のことは、エッジワース神父から話に聞いていた。
テレーズは今、王を焚きつけている。ルイ十六世に耐えられたことが、ルイ十八世には出来ないのかと。
「私たちの覚悟を、今こそ示す時。たとえ吹雪の中で野宿を強いられようとも、フランス王のいる場所が、フランス王女たる私のいるべき場所なのです」
王の表情が変わった。
こちらの言うことに顔をしかめていたのが一転、その目はまっすぐと姪のことを見据えた。
それからすぐ、主だった臣下や女官を、大広間に集めた。
王が、パーヴェルの命令を伝える。
大広間にわき起こったざわめきは、動揺、悲嘆、怒り。みなの反応は予想どおり、というより予想以上だ。
とにもかくにも悠長にしている時間はない。出立と退去の支度が慌ただしく始まった。
「妃殿下」
大広間の隅にいたダグー夫人が、神妙な面持ちでこちらにやって来た。
「あなた様のお供をさせてください」
「でも、あなた……」
テレーズは思わず、彼女のお腹に目を遣った。
女官を一人は連れていくつもりだったが、いくら何でもダグー夫人は無理だ。
行き先が決まっていない、しかも真冬の旅に、妊婦を従者として連れていくことは出来ない。
「どうか今だけでも、女官らしいことをさせてください」
彼女の意図が、テレーズにも分かった。
先に身ごもったことの罪滅ぼしをしたいのだ。
(あなたは馬鹿よ、アンヌ)
声には出さず、彼女を叱った。
「分かったわ。あなたは、子供が生まれるまでミタウに留まりなさい」
どうしてと言いたそうな顔をするダグー夫人。
テレーズはあえて厳しい態度で、彼女と向き合う。
「たとえ行き先がペテルブルクでも、馬車で何日もかかるのよ。その間、お腹の子に万一のことがあったらどうするの」
「ですが」
反論しようとする彼女の両肩に、テレーズは手を置いた。
「女官としてのあなたの代わりは、誰にでも出来るわ。でもあなたのお腹の子の母親は、あなたしかいないのよ」
この場には、王や仕える者たちが残っている。
子供のいない女主人が妊娠中の女官に冷たく接していると、彼らは思っているかもしれない。
どう思われようと、テレーズは構わない。
何の罪もないお腹の子とその母親を、寒さの中で危険な目に遭わせるくらいなら。
「あなただけでもミタウに残って暮らすのに、不便でない程度の住まいを残してもらえないか、私から総督に掛け合うわ」
ダグー夫人のすがるような目が、嫌だと言っている。
彼女が泣きそうな顔をしても、テレーズは心を鬼にした。
「だから間違っても、その体で、陛下と私の後を追ってこないで。もし今言ったことを守らなかったら、王家の女官の職を解きます」
彼女の頬を、雫が伝った。
「申し訳、ございません……立場も、わきまえずに」
テレーズは彼女の両肩を軽く叩いて、顔を近づけた。厳しい女主人の仮面はもう必要ない。
「元気な赤ちゃんを産むこと。これは、アングレーム公妃からアンヌへの命令よ」
最後の一言は、あえて冗談を言うような口調。だが伝えた言葉は冗談ではない。テレーズが心から彼女に願うことだ。
そこへ、一人の男性が駆け込んできた。
ダグー子爵だ。
別の場所にいた彼は、他の者から知らせを聞き、ここへ来たようだ。
テレーズはひとまず、ダグー夫人を彼女の夫に託した。
「若い者同士の話は済んだか」
それまで黙っていた王が口を開いた。
「はい。私情を挟んでしまい、申し訳ありません」
「ならばいい」
続けて、
「ダグー子爵、そなたも余について来い。男手が必要だ」
王の命令に、かしこまりました、と子爵が改まった様子で答える。
こういう時こそ夫婦を一緒にいさせてあげたいが、あいにく無理そうだ。
従者を厳選するにしても、若い男性の力は絶対に必要。先ほど王が言っていたとおり、女性や高齢者では足手まといになりかねない。
それはそれとして、先ほどからこの場に留まり、テレーズたちのやり取りを眺めている臣下や女官が何人もいた。
テレーズは彼らに命じた。早く支度をするようにと。
傍観者たちは、ようやく動き出した。
「心配するな、アンヌ。すぐまた親子三人で一緒になれるからな」
ふと聞こえた声。
励ます子爵と、泣きながら微笑む夫人。
寄り添う二人の姿に、テレーズは胸をなで下ろした。
すると、別の声がテレーズのことを呼んだ。
マリ神父だ。
「お父上様の追悼ミサを、予定どおり執り行いましょう」
出来ることなら、そうしたい。だが即時追放という命令である以上、無理だと諦めていた。
「今エッジワース神父が、陛下にお話し申し上げています。明日のミサのため、出立を明後日まで延ばすことは出来ないか、総督に掛け合っていただきたいと」
思わぬ心遣いに、テレーズの胸は熱くなる。
こちらが感謝の言葉を伝えれば、マリ神父は優しく微笑んだ。
【98. 追放】




