第3章:不協和音がプラスされマイナス
――カランカラン、とドアベルが間の抜けた高い音を立てる。
重いドアが開き、一人の男が足を踏み入れてくる。
戦前から続くバロック様式の静寂が、無惨に破られた。
ブラウン
「――『プラマイラボ』です」
その声は、重厚なドーム天井に不気味なほど鮮明に反響し、フミスケの鼓膜を射抜く。
男の名はソウサイ・ブラウン(25)。「プラマイラボ」の喫茶担当、勤務歴8ヶ月。
手には、場違いなほど仰々しい銀色のトレイ。高級ホテルの給仕を模した制服はサイズが少し合っておらず、どこか借り物めいている。
しかし、本人は憧れの執事そのものになりきり、背筋をピンと伸ばして歩を進める。
ブラウン、店内を見渡す素振りもせず、まるで最初から二人の居場所を確信していたかのように、フミスケとセキミのテーブルへ一直線に近づいていく。
ブラウン、二人の前にピタリと立つと、絵に描いたような営業スマイルを浮かべる。
ブラウン
「プラマイラボです。大変お待たせしました。相殺ココアでございます」
ブラウン、セキミの目の前に、もうもうと湯気の立つココアを置く。
ココアの表面はマグマのように激しく湯気を噴き上げ、不自然に甘ったるい匂いが立ち上っている。
セキミ、ココアとブラウンの顔を見比べ、それから背後の入口へ視線を向ける。
セキミ
「ちょっと待って。あなた今、外から入って来なかった? 厨房はあっちよ!」
店の奥の厨房を指差す。
ブラウン、表情一つ変えない。
ブラウン
「……相殺ココアのご注文でしたよね?」
セキミ
「……言ってない、言ってない。頼んでないし、そもそも何よそれ!」
セキミは胸の前で両手を激しく左右に振り、拒絶のポーズをとる。その瞳には、目の前の飲み物に対する純粋な恐怖と混乱が浮かんでいる。
フミスケ
「(遮るように身を乗り出し)そうです! それです! 彼女にお願いします!」
セキミ
「ちょっと、フミスケ!」
セキミはフミスケを射殺さんばかりに睨みつける。
ブラウン、二人のやり取りなど存在しないかのように、まるで説法の様に淡々と説明を始める。
ブラウン
「こちらは、ただの甘いココアではございません。お二人の思い出の『いいところ』と『わるいところ』を相殺し、心の均衡を整えるための特製ココアでございます。熱いうちに、一気にお召し上がりください」
ブラウン、顔をぐっと近づける。
ブラウン
「さぁ」
セキミ、思わず身を引く。
セキミ
「どうしてこんなアッツイ、ココアを一気飲みしなきゃいけないのよ……」
ブラウン、機械のようにフミスケへ向き直る。
ブラウン
「そして、お客様にはコーラをご用意しております」
セキミ
「じゃあ、そっちがいい!」
セキミが勢いよく立ち上がり、グラスを奪い取ろうと手を伸ばす。
ブラウンは、その手が触れる寸前、ひらりと身をかわす。一瞬だけ、その顔に「しまった」という困惑がよぎる。
ブラウン
「……あ、いや。こちらのコーラには、その……特別なものが……」
セキミ
「特別なもの? コーラでしょ。いいからよこしなさいよ!」
セキミが再度、強引に手を伸ばす。ブラウンはグラスを死守しながら、
完璧な営業スマイルを取り戻し、まるでどこかの広告のキャッチコピーを読み上げるかのように捲し立てる。
ブラウン
「……進撃に、濃厚に、たっぷりと相殺成分を配合しております!」
セキミ
「……は?」
ブラウン
「……はい、進撃の濃厚相殺成分、入っております。フミスケ様用です。お客様には、その、胃粘膜が戦闘態勢になってから……」
ブラウンは、言葉のつじつまが合っているかどうかも気にせず、フミスケの前に強引にグラスを滑らせた。
フミスケは嬉々としてグラスを手に取る。
セキミ
(呆れ果てて)
「……適当すぎるでしょ。さっきまでそんなこと一言も言ってなかったじゃない」
セキミは忌々しそうにドカッと椅子へ沈み込み、テーブルを睨みつけた。
その時、本物のカフェ店員葉湯が、お盆に白いコーヒーカップを載せて、ぬっと客席に現れる。葉湯はそのまま上手側の客のテーブルへと、無表情に歩いていく。
葉湯
「お待たせしました。ヒーヒーです」
「コーヒー」の語頭と語尾を不自然にねじ曲げ、引き伸ばした、限りなくコーヒーに近いが明らかに別の単語のような発音。セキミはすかさずその背中を指差し、フミスケを振り返る。
セキミ
「ほら! あっちのお客さんは、ちゃんと厨房から出て来た人が珈琲出してるじゃん! 普通はそうなのよ!」
フミスケ
「セキミ、よく耳をすませて聞いてごらん。
店員さん、あちらのお客さんに出した飲み物は何ですか?」
葉湯は面倒くさそうな表情で首だけを機械的にこちらに向ける。
葉湯
「ヒーヒーですけど」
葉湯はそれだけを冷たく言い残すと、軽く頭を下げ、再び厨房の暖簾の奥へ、音もなく吸い込まれるように去っていく。
フミスケ(勝ち誇ったようにニヤついて)
「ほらぁ、よく分からないヒーヒーより、こっちの相殺ココアの方が全然マシでしょ!」
セキミ
「どっちも嫌よ! まともなものを出しなさいよ!」
ブラウンは二人の激しいやり取りを、すべてを達観したような深みのある表情で見つめている。
しかしその目は全く何も理解していない虚無の瞳だった。
ブラウン
「……わかりました。無料にしますから、とりあえず飲んでください」
セキミ
「そういう問題じゃない!もういいわ、お水で」
セキミは苛立ちをぶつけるように、テーブルの水をゴクゴクと飲む。フミスケとブラウンがそれをじっと黙って見守ると、深海へ沈む石のように急速に混濁していった。完全に気を失った。
その瞬間、ブラウンが一歩後ずさる。
いつの間にか、彼の背後に二人の男が立っていた。まるで最初からそこにいたかのように。




