38 解呪の儀式
あれからスズワさんは意識を失い、死んだように眠り続けている。
ハンジさんが軽く声をかけても微塵も起きるそぶりがないらしい。せっかくアルトが獲ってきた鹿も、結局一口も口にしないままだ。何しろ息はしているしとそのまま寝かせているけれど。
雨もやまないしこの状態のスズワさんをそのままにしては行けないし、私たちの出発は当分見送ることになった。
ハンジさんのご厚意で今晩も家に泊めてもらえることにはなったけど、スズワさんが目覚め次第どうなることか……。
「ハンジさんも寝たし、アルトも勝手に寝てるし、私ももう寝ようと思うけど……あんた達はどうする?」
パチパチと乾いた木が爆ぜる囲炉裏の前で、自分の外套に身を包みながらティナが言った。
スズワさんの行った儀式については既に話してある。ティナの意見も、まぁ十中八九まじないは成功しないだろうということだったけど……
「私は寝るね。ミカゲは起きてて」
「え」
「スズワさんが起きるまでは寝ちゃだめよ」
「……わかった」
素直に頷くミカゲとは対照的に、何かもの言いたげなティナが私を見る。
「なに?」
「……いや、まぁそれがいいかもね。スズワさんもさすがに明日には起きるでしょうし」
「でしょう」
念には念を入れたって悪いことはないもの。
一つ問題があるとすればミカゲの睡眠時間だけど……。そういやミカゲって、もう結構な期間まともに寝てないんじゃなかろうか。
「ミカゲは……体は大丈夫?」
「ああ。寝ようと思えば寝られるだろうが……最近特に動いてもいないせいか、体力があり余ってる感じがするな」
そう言って肩を回すミカゲは、特に強がっているわけでもなんでもなさそうに見える。
「非日常が続いて神経が高ぶってんでしょ。調子乗ってたら急にガタがくるわよ」
「そういうもんか」
たしかに、睡眠が足りてないせいで逆にハイってことはあるか。
「……スズワさんが目を覚まし次第、交代ね」
そのときは起こしていいから、と伝えて眠った。
けれど私が次に目覚めたのは、窓から差し込む朝日が瞼の上から目を焼いた瞬間だった。
スズワさんは一晩中、一度も目を覚まさなかったのだ。
「息はしてる。けど声掛けには一切反応がねぇ」
「さすがに心配だね……後で怒られるかもしれないけど、今のうちに完全に治癒してみよう」
敷物の上で眠ったまま、身じろぎ一つしないスズワさんにさすがにみんなが違和感を覚え始めていた。
思っていた以上に体が衰弱してしまっているのかもしれない。
怒られようとなんだろうと、昨日のうちに治してしまえばよかった。
スズワさんの隣に座り、体の上に手を翳して治癒の祝詞を唱える。
するとスズワさんの体からは少しもしないうちに——黒い水が浮かび上がった。
(黒……!?)
私は翳していた手を咄嗟に離して叫んだ。
「みんな離れて!」
すぐに状況を察したミカゲとティナがハンジさんを抱えて後ろへ退く。
「なんだ?」
この空気すら読めないアルトは、私の肩口から顔を覗かせながら呑気な声を出していた。
この黒い水をアルトは覚えていない。
半年前の——自分が呪われていたときの記憶が、彼には一切ないから。
「巫女様……? 娘は、スズワはどうしたっていうんですか!?」
「……呪いにかかっています」
私が手を離した瞬間から黒い水は形を失い、スズワさんの体の中へ戻っていた。
スズワさんは何事もないかのように、きれいな顔で眠ったままだ。
「呪い……!?」
「……記憶頼みでまじないの儀式をしたせいで、失敗したそれが何らかの呪いとなって降りかかったのかもしれません」
たかがまじないとはいえ、本来そう簡単に手を出していいものではないのだ。
失敗して、何も起こらなかったねで済むならよかった。
だけど今回は……ただの情報として差し出すにはあの血の量は多すぎたし、血が贄として働いてしまった可能性が高い。
気持ちの面もあるだろう。誰かを憎む気持ちや負の感情が、まじないの儀式を呪いの儀式に変えてしまった。
「私のせいだ……急いで解呪しなきゃ」
「待て、また自分に移す気か?」
再び手を伸ばしたところで、それをミカゲに掴まれた。
「焦るな、ちゃんと正攻法ってのがあるんだろ」
「……わかった、準備する」
「あたしも手伝うわ」
それから山の木を切って人型に彫り、それを祭壇に置いて一晩かけて祈祷をした。
火を絶やさないようにとめずらしくアルトも起きて働いている。
そしてミカゲも、まだ一睡もしていない。
「あんた本当に大丈夫なの? さすがに寝ないとまずいんじゃない?」
「いや……別に疲れは感じてない」
ひたすら依り代に祈りを籠める私の後ろで、ティナとミカゲはぼそぼそと言い合いを繰り返していた。
「スズワがあの部屋のまじないに囚われているんだとしたら、今俺が眠るのは相当危険だろ」
「もちろんそういうリスクがないではないけど……」
「俺はメイ以外とあの部屋を攻略するつもりはねぇ。だから万が一だろうと避けれるもんは避けるってだけだ」
祈りの言葉を呟きつつ、私は内心でほっとしていた。
◇
あの呪いに対してこの器で十分なのか、それはもうやってみるまでわからない。
本当なら三日三晩時間をかけたっていいところだけど、一晩で既にスズワさんの容体は急変していた。
ただ眠っているようだった顔はすっかり青ざめて生気をなくし、死者のごとく指先は冷たい。
もう、いつ息が止まったところで不思議ではないように思えた。
「じゃあ今から、スズワさんの中にある呪いをこの依代に移します」
祭壇の前にスズワさんの体を横たえ、その手前に依代を並べる。
「お願いします!」とハンジさんは早々に自らも祈りの姿勢に入った。
ここの人達には縋る神がいない。今この人が祈りを捧げている相手は私そのものだ。
どうあっても失敗できないなと長い息を吐く。
そんな私の肩にミカゲの手が置かれた。
「大丈夫だ」
その静かな笑みを見て、いつの間にかがちがちになっていた肩の力が無意識に抜けた。
〝その目が俺を見るときは、安心しきって柔らかくなるとこ〟
……そう、そうだね。きっとそういうところ、ある。
「 」
治癒の祝詞がすらすらと口から零れた。
スズワさんの体から溢れ出す黒い水がいくら膨れ上がっても、昨日のような焦りはない。
翳した手を動かして、その水を少しずつ依代の中へと誘導する。
水は暴れるようなこともなく大人しくスズワさんから移動していた。
依代の乾いた木の色が、端から少しずつ黒く染まっていく。
しかし依代の全身が真っ黒に染まったところで水はまだ溢れ続けていた。
やっぱり容量不足かと、嫌な考えが頭にちらつく。
そして次の瞬間には、ぱきりと音を立てて真っ二つに割れていた。
「——っ!」
私の動揺を現すように、まだ依代に入り切っていない水がうねりを上げた。
「メイ!」
「大丈夫、残りは私に移す!」
溢れ出る呪いはこれからの行先を探している。とにかく他の人を巻き込むわけにはいかないと、その水を引き寄せる。
しかし水は私の手を離れて高く空へと昇り——
頭上から私自身に降りかかった。
「あ」
まるで急に海の底に突き落とされたような濁った視界と息苦しさと、指一本動かせない重圧感。
誰かに腕を引かれるような感覚がしたものの、1ミリも抗う余地なく視界がぐるりと回った。




