37 血の覚悟
目を覚まして少しもしないうちに雨が降ってきた。
しかし念の為張っておいた雨よけのおかげでみんなの安眠は保たれている。
私はその雨を眺めながら……二度寝した。
雨の登山は大変だし出立はまだ見送ろう。みんなきっとそう言う。だから今日はちょっとぐらい寝坊したっていい。
寝返りをうって、瞼を閉じる。そしたら裏側に鮮明に、さっきまでの光景が蘇った。
『生きたいと思ってるよ。お前のためにもな』
——そう、生きてほしいと私が言った。
それは間違いないのに、あのときのミカゲの顔が……なんだか少し引っかかる。
ちょっと自惚れすぎというか、
(幸せそうだったな)
今更だけどあの部屋で私は……結構すごいことを言ってしまったんじゃなかろうか、と。
悶絶する声を抑えるために、顔を毛布で覆った。
結局眠れはしないまま時間だけが過ぎた。雨が地面を叩く音に黙って耳を傾ける。
そのうち、ぬかるんだ地面を勢いよく駆ける音が近づいてきた。
「——メイ!」
ミカゲの声だった。反射的に身を起こして声の方を振り返る。
ミカゲは傘も差さずびしょ濡れでこちらへ走ってきていた。
「メイ! スズワを——スズワを治してくれ!」
◇
納屋の中には、ハンジさんの腕の中に抱えられたスズワさんの姿があった。
青白く血の気のない顔に、ぐったりと伸びた四肢。それに何より彼らの足元に広がる血だまりが、ただ事ではない状況を物語っていた。
「巫女様——! 娘を助けてくれ! 頼む!」
「すぐに治します」
スズワさんに近づきつつ手を翳す。失血箇所は——左手首。
「一体何が——」
——パシン。
スズワさんの体に翳した手が乾いた音と共に薙ぎ払われた。
「スズワ……!」
ミカゲが、憎しみのこもった目で私を睨む彼女の名前を呼ぶ。
「……意識があってよかった。大丈夫、何も怖いことはないから。じっとしてて」
「やめて! あなたの手なんか借りない……!」
「スズワ!」
スズワさんは息を荒くしながらも拒絶を示した。
……治癒は無理やりにでもできないことはない。
(だけど……)
傍に落ちているナイフや傷の状態からして、スズワさんは自ら手首を切ったのだろう。
まずはその理由を取り除かないと、今の彼女を治癒したところで……
「……わかった。私は手を出さない。ティナ、彼女の応急処置を手伝ってあげて」
「ええ。ハンジさん、とにかく家の中へ」
「あ、ああ……」
「おい、メイ……!」
私はこっそりミカゲに目配せした後、口の中で治癒の祝詞を呟いた。
そしてハンジさんの背中越しにスズワさんに手を翳した。
ポタポタポタ。血ではない赤い水が何滴か地面に落ちて、染み一つ残すことなく消えていく。
「ひとまず止血はした。死にはしないと思う」
ミカゲは胸を撫でおろして「ありがとう」と呟いた。
「あとは失った血を自分で作ってもらわなくちゃ。アルト、なんか活きのいい獣でも獲ってきてよ」
「ええ~、雨降ってんのにか?」
「あんたもそろそろお肉食べたいでしょ。ほら、雨除けのお守り持たせてあげるから」
雨天の出発も想定して、昨晩のうちに祈りを込めておいた水晶の欠片をアルトに渡した。
大陸の雨はほんの微かにだけど瘴気が混じっているため、退魔の力を応用することで一定時間なら弾くことができる。
「それなら行ってくる!」と意気揚々と出て行くアルト。あれはスズワさんのためというより自分が食べたいだけだろうな。
「で……スズワさんには何があったの?」
尋ねると、ミカゲは苦々しい顔で頭を掻いた。
「昨日の夜……あれからスズワと話したんだが、ほとんどロクに会話にもならねーまま納屋に閉じこもっちまったんだ。だからしばらく時間を置いて、夜が明けてからもう一度納屋を見に来て……そしたらスズワが倒れてた」
「……スズワさんはミカゲを止められないことを悲観して……死のうとしたのかな」
「……いや……」
ミカゲの視線が納屋の奥に伸びる。
だけど窓もない小さな納屋は暗く陰っていており、灯りなしではよく見えない。
私はゆっくりと奥へ進んだ。
足元には血の跡が続いている。どうやらスズワさんが手首を切ったのはこちらのようだ。
その血の跡を見ていたら、いつの間にやら火のついた蝋燭を手にしたミカゲが隣に並んだ。
その明かりで改めて納屋の中を見渡した。
「——!」
きれいに整理された棚が並んだ空間の奥には、机と椅子が一つずつ置かれていた。おそらくこの納屋はスズワさんの作業部屋も兼ねていたのだろう。机の上には紙束が高く積みあがっており、机の下にもいくつかの本が並べられていた。
そしてその一帯が——赤黒く、血で汚れていた。
「……仕事道具でしょうに。あとで困るだろうから、なるべくきれいにしてあげよう」
足元に散らばった紙を拾い上げて、一旦机の上に置こうと視線を傾けた。
そこで、机の上に直接何かが描かれているのに気が付いた。
「なに……?」
血だまりの隙間から墨の色がちらちらと見えるけど、全貌がわからない。
試しに持っていた紙で机の上を拭ってみたら、きれいに血だけが拭き取れた。
墨は丸い円を描いていた。その中に五芒星と、よくわからない記号を連ねたような紋。
魔法陣とは形が違う。これは……
「呪詛の……陣……」
血の気が引いた。自らの血を贄に誰かを呪った? いや、でもスズワさんの血以外の……呪う相手の魂の情報が、ここにはない。
(まさか……!)
咄嗟にミカゲを見上げた。
『両想いになるおまじない』……これに使うのは自らの魂の情報だけだ。
「おまじないにかかった感覚……ある?」
「あるわけねーだろ」
「だよね」
眠ってみるまで何もわからない。このおまじないはそういうやつだと、身に染みて知っている。
「だ……大丈夫だよ! スズワさんは今、あのまじないの本なんて持ってないわけだし」
ならこの陣は記憶を頼りに描いたもの……となれば当然、正確性に欠ける。まじないの呪文だって覚えてたかどうか。
「これほどのまじないなんだから、複雑な呪文が必ず記されてたはずだよ。……それにスズワさんは本を持っていたときでさえ、一度このまじないに失敗している。今回の条件で成功するはずがない。ね?」
「ああ……」
「……よし、全部片づけよう。お水汲んでくるね」
「メイ……」
「大丈夫、心配ないよ。今はとにかくスズワさんの回復を祈ろう」
ミカゲは静かに呪詛の陣を見つめていた。
そりゃおおよそ大丈夫だとはわかっていても本人は不安だろうし、そもそも旧友が自分のせいで自らを犠牲にしかけたなんて、心苦しいに違いない。
私はできるだけ明るく振舞ってあげよう。ミカゲがこれ以上苦しくならないように、心配にならないように。




