15 呪われた勇者
私には常に見えていた、村を覆う膜のようなそれが消えてしまった。
そこまで強い結界でないとはいえ、実際に破られたのは初めてのことである。
何も見えていないはずの村人達も何かを感じ取ってはいるのか、不思議そうに辺りを見回している。
すべてわかっているおばばにいたっては、顔面蒼白でぶっ倒れた。
「みんな私の後ろに!」
再び弓に矢を番え、破られた結界の袂を見据えて弦を引いた。
「あ……あんの馬鹿……! み、巫女様、ちょっと待ってごめんなさい、たぶんもう一人の連れの仕業なの! 堪え性がなくって! 待ちきれなかったんだと思う……!」
そういえばこの人には結界が見えていたのか。
やっぱり魔王を倒そうなんて人達はさすがに只者じゃないんだなと、背中に冷たい汗が伝う。
「クリスティナ、まだかかるのか!?」
「ミカゲ! 待っててって言ったでしょ!」
鏃の向こうに人影を捉えた。
全身真っ黒な衣装に、短い黒髪の男。片手には一本の刀を携え、反対の肩にはぐったりとした男を担いでいる。
おそらくあのぐったりしたのがアルトという勇者なんだろう。
アルトからはたしかに魔の気配を感じる。だけど見かけはただの弱った人間だ。結界を破ったのはミカゲと呼ばれた黒い男の方で間違いない。
「巫女様とは今交渉中だから……!」
「交渉なんて悠長なこと言ってる場合じゃねぇだろ。……おい、お前が巫女か? おそらくもう時間がねぇ。今すぐアルトリウスをみてやってくれ」
そう言うとミカゲは、アルトを降ろしてそのまま地面に横たえた。
二人はあまりにも無防備で、それを射抜くのはあまりにも簡単なことだ。だけど、
「……とりあえず結界を破ったことを謝って。貼り直すの面倒だから」
「わるかった」
「よし」
私は番えていた矢を矢筒に戻して、二人に近づいた。
「巫女様……!」
幸い、一番うるさいババアは泡を吹いて失神している。村人達は慌てふためくものの、ロクに私に触れられもしないんだからいるもいないも同じこと。
力なく横たわったままのアルトの隣に腰を下ろす。
歳の頃は十五、六。まだまだ子どもだ。意識はなく、赤い髪を汗でぺったりと顔に張り付けながら荒い息を繰り返している。
——こんなのが勇者かと、正直思った。
世界の命運をかけるに値するとは思えない、普通の少年じゃないか。
しかし何よりも気になるのは……
「これは……?」
アルトの顔には、幼い顔つきに似合わない、禍々しい黒い紋様が浮かんでいた。
「とある魔族を倒してしばらくしたら苦しみ出して、これが浮かび上がってきた。最初はもっと薄かったのに、どんどん濃くなってる」
「たぶん……〝呪い〟だと思うの」
「呪い……」
今までも何人か、呪われた人間を見たことはある。けど……
「呪いでここまで魔に侵された人間はさすがに見たことない。おそらくその魔族、自分の命を贄にしてこの子を呪ったんだと思う」
「なんでもいい。治せんのか?」
「強い呪いだから儀式が必要になる。準備にはそれなりに時間もかかる」
「だめだ、もう脈が弱ってきてんだ。一刻を争う」
私たちの会話の間に、アルトが苦しそうにもがきはじめた。
「ぐ……ぐぁ……」
「アルト! 大丈夫、しっかりして!」
苦しむ子どもの姿なんて見ていられない。どうにかしてやりたいのは山々だ。
しかし呪いというのは、傷や病気のようにその場で消し去ることはできないのだ。
「……呪いは身代わりとなる依代を用意して、それに移すのが一番たしかな解呪法になるの」
「依代? なんだよそれ、どこで手に入る?」
「紙でも木でも……とにかく呪いを受け止めるだけの強度があればなんでもいい」
「強度ってのは……」
「私の祈祷で高められる。でも今回の場合は、それを用意するのに……一日はかかると思う」
「一日!? もうそんなにもちそうにないわよ……!」
「だけど半端な依代を用いれば、おそらく呪いが暴走してしまう。そうなれば、誰にどんな被害が及ぶようになるかわからない」
「そんな……」
たしかにアルトはもう息をするのも精一杯の様子だ。ミカゲが私の結界を破らざるを得なかったぐらいにはギリギリなのもわかる。
だからこそ、もう正攻法では乗り切れない。
「……なにしろ、呪いをこいつの体から移すことはできるんだな?」
「だから、それを移す器がないと——」
「じゃあ俺に移してくれ」
「!」
何を言っているのかと目を見張った。
「いま自分が元気だから、呪いにも耐えられると思ってる? 残念だけど、呪いはこの子の中でもうすっかり育ってしまってる。あなたに移せば、その瞬間にあなたがこの子と同じ状態になって、そのうち死ぬだけだよ」
「俺は別にどうなったってかまわねぇ」
「え……」
私の言葉を聞いても、ミカゲの真剣な眼差しは揺るがなかった。
「アルトリウスだけは助けなくちゃなんねーんだ。こいつは、いつか魔王を倒す勇者だから」
……迷いがない。彼はたぶん本気で言っている。
こんな死にかけの少年が、この男にどんな夢を見せているのだろう。
それがどういう経緯で生まれた信頼関係かはわからない。もしかしたらそれはただの建前で、本心は愛ゆえの奉仕かもしれない。
でももし……もし、この男の話が本当なら、
「……わかった。でも、この呪いは私が引き受ける」
「え……!?」
「私は加護の力であらゆる魔から守られている。私ならこの呪いも、取り込んだ瞬間から浄化できる……かもしれない。たぶん。きっと」
「じ、自信なさそうだが……」
「まぁもしだめでも私が死ぬだけだよ」
「巫女様は、どうしてそこまで……」
この勇者が魔王を倒す。それが本当なら……
「どうしても何も、勇者様ご一行の方が私よりよっぽど、生きる価値があるでしょう?」
魔王とはまさしく、魔のすべてを統べる王。
魔物や魔族のすべては彼の支配下にあり、百年前には、魔王の手によってたった一晩で一国が滅んだともされている。
その後魔王は表立って人間の前に出てきてはいないが、魔王軍の侵略によって人は住処を失う一方だとか。
でも勇者が魔王を倒してくれるなら……もう人々が魔に怯える日々は来ない。
(そしたら私の祈りも存在も、もう必要なくなるんじゃない?)
実際のところこの箱庭で生きる私には、魔王の脅威にも、それに立ち向かう勇者の権威にも、大した理解は及ばない。世界の命運なんて、この村にとっても私にとってもどうでもいいことかもしれない。
ただこの機会が……ある種の救いなのではないかと、そう思ってしまった。
世界を救う勇者を救うという大義名分のために——
私はこの命を捨てることができる。
「おやめくだされ巫女様!」「巫女様に何かあっては大変じゃ!」「残された我々はどうなりますか!」
けれど私達を取り囲む村人達は、もちろんそんな私を許さない。
普段は一切私に声なんかかけないくせに。さも私が大切であるかのように取り繕って、結局案じているのは自分のことだけ。
「大丈夫、きっとこれが村のみんなのためにもなるのよ」
まったく本心ではないのに、過去一清々しい笑顔が作れた気がする。
そしてそれはみんなもそう感じたのか、揃いもそろって「そうなのか?」という風な顔をして大人しくなった。とことん自分の頭で考えることをしない人たちだ。
(そういえば、こんなに人と喋ったのはいつぶりだろう)
思っていたよりもずっと私、普通にしゃべれるのね。
今この瞬間にも私の穢れとやらは増しているのかもしれないけど……これで死ぬなら関係ないね。
「じゃあ始めるよ」
さっき転んだ子どもにしたのと同じように、アルトの体の上に手を翳した。
——するとその手をミカゲに掴まれた。
「えっ……!?」
「おいお前、ちゃんと生きてどうにかしようって気はあるんだろうな」
「は……離して! 触らないで!」
反射的に彼の手を振り解こうとしたけれど、思っていた何倍も強い力がそうはさせてくれなかった。
所詮老婆しか相手にしてこなかった私は、人の手を振り解くのに必要な力すらまともに知らないのだ。
「懸けるのが俺の命ならいい。だがゆきずりのお前の命と引き換えたいわけじゃねぇ」
人との会話ごときで加護の力が失われることがないのはもうとっくに知っている。私が普段の会話を封じられているのはただの無意味な因習だ。
だけど接触は違う。
おばば以外の人が私に触れた記憶は一度もない。
「離して……穢れてしまう……」
「なんだよ汚れって。人をバイ菌呼ばわりしてんじゃねーぞ」
「そういうことじゃなくて……!」
「離してほしけりゃ誓え。お前も必ず生き残るって」
触れられている手が熱い。腕に心臓が生えたみたいに、どくどくとそこが大きく脈打つ気がする。
「か、仮に私が死んだって、あなたは気にしなくていい。……私は神命をまっとうしたと、そう思って」
「はあ? 無茶言うな。巫女だか神使だか知らねぇが、目の前で女一人犠牲にしといて平気で旅を続けられるほど、俺の面の皮は厚くねぇんだよ」
「——!」
そうか。この人が見ているのは巫女としての私ではなくて、人としての私だ。
「わ……わかった、わかったから……! 死なないように努力するから、とにかく離して……!」
「よし。頼む」
力強く引いた手を今度はあっさり離された。
それまで鋭かったミカゲの目つきが一瞬柔らかくなって、やさしく弧を描く。
(あ……)
心臓が痛いぐらいに戦慄いた。
人にそんな眼差しを向けてもらったことがかつてあっただろうかと。ともすれば零れ落ちそうになる涙をごまかすために顔を逸らした。
「……危ないから離れてて」
……もしこれで私が死んだら、彼らの人生に影を落とすことになる。
私が自分に都合のいい死に方を求めるせいで。
しばし目をつむり、心を決めた。
再びアルトに手を翳して治癒の祝詞を唱える。
「ぐ……!」
「アルトリウス……!」
アルトが苦しそうに呻き声をあげる。
それと同時に、光を通すことのない黒い水が彼の胸元から浮かび上がった。
「なにそれ!?」
「〝呪い〟を……彼の体から押し出してる」
——よかった、力はちゃんと使える。
まだ私は穢れてないんだと安堵した。
何か、穢れを免れた理由があるのか。もしくは会話と同じく接触だって、禁じられていることに意味なんてなかったのか。
(よし、この子を助けたあとで考えよう!)
すべての呪いを絞り出すべく力を籠める。
水は垂れることなくその場で次第に大きくなり、あっという間に人ひとりを覆ってしまえそうなサイズにまで膨らんだ。
しかしそれでもまだアルトは苦しそうなままで、顔の紋様も色濃く残っている。
やっぱりこれを根っこからどこかに移し取らないと、彼は助からない。
沼の底よりもさらに深く黒い塊を前に、一つ息をつく。
それから意を決して、その塊の中に両腕を突っ込んだ。




