第92話 山へ向かう馬車と、甘い囁き
王都を出立した馬車が、街道沿いの小さな宿場町を通り抜けようとしていた。
目立たぬよう歩みを緩めた馬車の中で、拘束されたリアナは窓の外を見てハッと息を呑んだ。
町の入り口の掲示板。そこに、兵士が大きな紙を何枚も貼り出しているところだった。
『重要通達――元聖女イザベラ。王城での反逆、黒魔術の使用、および誘拐容疑。発見次第、ただちに通報せよ』
(もう、手配書がここまで……)
迅速な捜索に驚きつつ、リアナは目の前に座るイザベラへ視線を向けた。
フードを深く被ったイザベラは、窓の外を睨みつけている。
「見るんじゃないわよ」
手配書を見て顔を見合わせたごろつきたちを、イザベラが低い声で怒鳴りつけた。
だが、馬車が進むたびに、彼女の耳には容赦ない人々の声が入ってくる。
至る所にある同じ手配書。そして、人々の無責任な噂話。
「聞いたか? 聖女様、偽物だったらしいぞ」
「黒魔術師だってさ。恐ろしいねぇ」
「公爵家を騙してたんだと。とんでもない悪女だな」
昨日まで、道を歩けば誰もが感謝し、尊敬の眼差しとともにその名を呼ばれていた。
なのに今日は。誰も自分を敬わず、蔑み、忌み嫌う者として扱っている。
「違う……っ」
イザベラは耳を塞ぐように両手で頭を抱え、ガタガタと震え出した。
「私は間違ってなんかいない……! 私は聖女なのよ! どうして誰も分かってくれないの……!」
激しい怒りと絶望で精神が削れていく。
その時だった。
『……可哀想に』
イザベラの頭の中に、ふと、甘く優しい声が響いた。
『お前は悪くない。悪いのは、お前を裏切った愚かな人間たちよ』
「……ええ、そうよ。私は悪くないわ」
『さあ、憎き者からすべてを奪い返しましょう。私が、力を貸してあげる』
虚空を見つめ、ブツブツと何者かと会話を始めるイザベラ。
その異様な光景に、ごろつきたちすら気味悪そうに身をすくめる。リアナはただ黙って、彼女を侵食していく底知れぬ『邪悪な気配』に恐怖を覚えた。
◇ ◇ ◇
「……クソッ、速いな」
一方、王都を飛び出したゼインとルークは、馬の腹を蹴りながら土に刻まれた轍を猛スピードで追っていた。
街道を外れ、人気のない荒れた道へと入っていく痕跡。その方角を確認した瞬間、ゼインの顔色が変わった。
「ルーク、この方角……まさか」
「あそこは、セラ様たちのいる場所じゃないか!」
ルークの悲痛な叫びに、ゼインは身を引き締めた。
誘拐されたリアナと、今は何をするかわからないイザベラ。その最悪の爆弾が、よりにもよってセラ様の元へ一直線に向かっている。
「急ぐぞ!! 追いつけなかったら、最悪の事態になる!」
◇ ◇ ◇
――そして、山の中。
ノクスは唐突に顔を上げた。
「……?」
風が、嫌な匂いを運んできた。
かつて自分が切り裂いた、あの黒魔術の気配。それが、ゆっくりと、確実にこの山へ向かって近づいてきている。
「グルルルルル……ッ」
ノクスは西の空を睨み据え、牙を剥き出しにして低く唸った。
その全身の毛が、危険を知らせるように逆立っていた。




