第91話 師匠の元へ
薄暗い教会の地下室。
縄で椅子に厳重に縛り付けられたリアナは、荒い息を吐きながらも、目の前に立つ女を真っ直ぐに見据えていた。
そこにいたのは、簡素な街着のイザベラだった。
聖女の面影はなく、髪は乱れ、瞳には尋常ならざる焦燥と狂気が宿っている。
「さあ、言いなさい。あの石鹸の製法はどこで手に入れたの? 誰が裏で糸を引いているのよ!」
イザベラはリアナの顎を乱暴に掴み上げ、執拗に問い詰める。
夜会での断罪、地位も名誉もすべてを失った衝撃。精神的に完全に追い詰められた彼女の頭の中は、一つの確信で支配されていた。
あの完璧だった計画が潰れるなんて! 公爵家のルシアンの動き、そしてあの石鹸。すべてが偶然なはずがない。自分を破滅へ追い込んだ『黒幕』が必ずいる。
「誰に教わったの!? 答えなさい!」
「……師匠、です」
リアナは痛みに顔を歪めながらも、決して怯むことなく言葉を返した。
「師匠……? 誰よそれは! 名前を言いなさい!」
「それ以上は、お答えできません」
ギリ、とイザベラが奥歯を噛み締める。
リアナが頑なに守ろうとしている存在。
その『師匠』こそが、故意に自分を陥れた張本人に違いない。憎悪の炎が、イザベラの胸の奥で燃え上がる。
「なら……その師匠のところへ、私を案内しなさい。今すぐによ」
突きつけられた要求に、リアナは一瞬だけ瞳を揺らし、思考を巡らせた。
(案内するなんて裏切るようなことしたくないのだけれど……)
表面上は恐怖に屈したように見せかけながら、リアナの胸の内は冷静だった。
王都のこんな狭い地下室に閉じ込められていては、助けが来る前に何をされるか分からない。だが、あの山へ向かわせれば話は別だ。
山には、イザベラを圧倒出来るであろう最強の狼・ノクス様がいる。兄やゼインたちも、きっと痕跡を追ってきてくれるはずだ。
(王都にいる方が危険ね。山へ誘導して時間を稼ぐのよ……!)
「……分かりました。案内します」
小さく息を吐き、リアナは静かに告げた。
「賢明ね。さあ、場所を言いなさい」
イザベラが勝ち誇ったように見下ろしてくるが、リアナは決して視線を逸らさなかった。
「言いません」
「……何ですって?」
即答されたイザベラの顔から、スッと余裕が消える。
苛立たしげな彼女に対してもリアナは怯まない。
「場所だけ聞けば、私を殺すでしょう?」
拘束され、圧倒的に不利な状況。それでもリアナは頭脳をフル回転させ、最善を考える。
「私が直接案内します」
「……平民の分際で、小賢しい真似を。逃げる気なのかしら?」
探るように目を細め、殺気を放つイザベラ。
しかし、リアナはあえて自身の『無力さ』を提示して相手の警戒を解きにかかる。
「縄を付けたままで構いません」
「……」
「どうせ私は丸腰です。大の大人が何人もいて、私一人を警戒する必要があるのですか?」
その言葉が、イザベラの肥大したプライドを見事に突いた。
(たかが石鹸屋の小娘一人、いつでも殺せる)――その慢心と油断が、イザベラの猜疑心を上回る。
「……ふん、いいでしょう。お前たち、すぐに馬車を用意しなさい!」
イザベラは満足げに唇を歪め、背後のごろつきたちに鋭く命じた。
◇ ◇ ◇
同時刻。王都の路地裏。
「言え! リアナをどこへやった!!」
「ガハッ……! た、助け……」
血相を変えてごろつきに掴みかかるルークの肩を、ゼインが背後から力強く引き剥がした。
代わりにゼインが冷徹な眼差しで男の胸ぐらを掴み上げ、低い声で告げる。
「場所を言え。次で腕をへし折る」
「外れの……古い教会の、地下室だ……! そこに聖女様が……!」
「行くぞ、ルーク!」
「ああ!」
実の妹を攫われた焦燥に駆られ、ルークは弾かれたように馬を走らせた。ゼインもすぐさまその背を追う。
しかし、彼らが教会の地下室へ乱入した時には――そこは既に、もぬけの殻だった。
「リアナ!? リアナ……ッ!」
ルークが悲痛な声で妹の名を叫び、薄暗い室内を血眼になって探し回る。だが、転がった椅子と千切れた縄以外、何も残されてはいない。
「クソッ……一歩遅かった……! 俺が、俺が火消しの方へ行ってしまったせいで……っ!」
「落ち着け、ルーク!!」
自責の念に押し潰され、頭を抱えそうになったルークを、ゼインの鋭い一喝が引き戻す。
ゼインは教会の裏手へ回り、地面に残された一本の深い轍を鋭く睨みつけた。
「まだ出発したばかりだ。轍が新しい。……行くぞ。何があっても、リアナは必ず取り戻す」
「……ああ……ッ!」
ルークは乱れた呼吸を必死に整え、力強く頷くと、ゼインと共に再び馬へ飛び乗った。
◇ ◇ ◇
ゴトゴトと、激しく揺れる馬車の中。
(この方向……東の山……? やっぱりあの山は何かあるのね。)
窓の外の薄暗い景色を眺めながら、イザベラは陶酔したような笑みを浮かべていた。
「ようやく見つけたわ……。私をコケにした黒幕を引きずり出して、すべてを奪い返してあげる……!」
狂気に染まったイザベラの横顔を見つめながら、リアナは心の中で、静かに祈るように名前を呟いた。
(セラ様、ノクス様……どうか、気付いてください……!)
その先に待つものが、救いなのか――それとも更なる絶望なのか。
まだ誰も知らなかった。




