第90話 偽聖女の執念と、焦げ臭い朝
王都の外れの古い教会の地下室。
そこは、イザベラが公爵家から流用した金で密かに買い上げ、裏社会の人間との接触や汚れ仕事に使っていた『秘密の隠れ家』だった。
暗がりから姿を現したのは、彼女が多額の報酬で飼い慣らしている数人のごろつきたちだ。
「遅かったわね」
「悪いな、聖女様。城の周りがやけに騒がしかったもんでね。……で、そのひどいザマはなんだ?」
「口を慎みなさい。言い訳は結構よ」
イザベラは不機嫌そうに眉をひそめた。
「城の様子は? 私の捜索はどこまで進んでいるの?」
「近衛兵が血眼になって走り回ってるぜ。スラムの方まで手が回るのも時間の問題だろうな」
「……そう。なら、それより先に服を用意しなさい。このままでは外も歩けないわ」
泥と血で汚れたドレスの裾を摘み上げる。
かつて貴族令嬢たちが羨望の眼差しを向けた特注品も、今や無残な有様だった。
「へいへい。お高そうなドレスも台無しだな」
ニヤつく男を冷たく一瞥し、イザベラはドレスの隠し袋からズシリと重い金貨の袋を床に放り投げた。
「お仕事よ。市街地にある石鹸屋のリアナ。あの子を生け捕りにしてここに連れてきなさい」
「あそこの店には、お貴族遣いの凄腕が番犬として張り付いてるらしいじゃないか。割に合わねえな」
「頭を使いなさいな。少し離れた場所でボヤ騒ぎを起こして、あの番犬の気を引くぐらい出来るでしょう?」
丁寧な口調とは裏腹に、イザベラの瞳にはどす黒い執念が宿っていた。
「私の完璧な計画を台無しにした黒幕……あの小娘を餌にして、必ず引きずり出してやるわ。いいこと? 絶対に殺しては駄目よ」
大金を手にしたごろつきたちが、卑劣な笑みを浮かべて夜の街へと消えていく。
◇ ◇ ◇
明け方、石鹸屋の周囲で警戒を続けていたゼインは、ふと風に乗って微かな異臭を感じ取った。
エリオからの応援で、夜明け前に合流していたルークも同時に顔を上げる。
「……焦げ臭いな」
視線を向けた先には黒い煙が立ち上り始めているのが見えた。
通りを二本挟んだ向こう側の路地だろうか。
「火事か!? いや、こんな早朝に都合よく……罠か」
ルークが鋭い視線を巡らせると、ゼインがすぐさま剣の柄に手をかけた。
「ゼイン! 念のため見てくる! 近隣の避難誘導と火消しは私が。リアナを頼んだ!」
「ああ!」
ルークが駆け出して間も無くだった。
正面の路地の暗がりから数人の男たちが得物を構えて飛び出してきた。
「死ね!!」
「……っ、下策だな」
ゼインは微塵も動揺することなく、流れるような動作で剣を抜き放った。
刃が閃く。踏み込んできた先頭の男の武器を一瞬で弾き飛ばし、柄で鳩尾を的確に打ち据える。
「ぐはっ!?」
「次」
ゼインの圧倒的な剣技の前に、男たちはただの一太刀も浴びせられず、次々と地面に這いつくばっていく。
数人を無力化するのに、数十秒もかからなかった。
(……いや、手応えが軽すぎる。こいつらはただの足止めか!)
ゼインが真の狙いに気付いたその瞬間。
背後の石鹸屋の裏手で、目眩しの煙玉が弾ける破裂音が響いた。
「しまった……!!」
ガシャアンッ!!
窓ガラスが激しく割れる音と共に、リアナの短い悲鳴が上がる。
ゼインが倒れた男たちを蹴り飛ばして裏口へ駆けつけた時、そこには割れた窓と、乱れた室内の惨状だけが残されていた。
路地の奥へと遠ざかっていく馬車の轍の音が聞こえる。
「……舐めた真似を」
彼は即座に馬車の痕跡を追った。




