第86話 突きつけられた真実と、浅はかな義母の後悔
王城での夜会を翌日に控えた夜。
公爵家は、明日の華やかな舞台に向けて静かな熱気に包まれていた。特に公爵夫人であるオリヴィアは、明日の場でついにルシアンとイザベラの『婚約』を大々的に発表するつもりでおり、上機嫌で自室のソファに腰を下ろしていた。
そこへ、静かにノックの音が響く。
「母上。夜分遅くに申し訳ありません。少しお時間をいただけますか」
「ルシアン? ええ、構わないわ。明日の段取りの最終確認かしら?」
微笑むオリヴィアの前に立ったルシアンの表情はどこまでも冷ややかだった。
「……いいえ。明日の夜会を前に、母上にどうしても『見ていただきたいもの』があり、参りました」
ルシアンはそう言うと、手元にあったいくつかの書類と、ノエルから受け取った『黒い箱』をテーブルの上に静かに置いた。
「ルシアン、これは一体……?」
「イザベラ様の《《偽りの》》治療に関する、文献とその証拠です」
ルシアンが淡々と告げた言葉に、オリヴィアの笑顔がピクリと引きつった。
「何を馬鹿なことを言っているのです。明日、公爵家の婚約者としてお披露目する聖女様を疑うなど――」
「疑いなどという曖昧なものではありません。紛れもない真実です」
ルシアンは母の反論を冷徹な声で遮り、書類を広げた。
「まず、こちらをご覧ください。イザベラ様がノエルに施した治療の記録と、最近のノエルの体調の推移を比較したものです。彼女が治療を行うたび、ノエルの体内では治癒どころか、むしろ極めて不自然な『黒魔術』の痕跡が蓄積されていました」
「く、黒魔術……? そんなはずがありません! ノエルの苦しむ声は消え、表情も良くなっているのですよ!?」
オリヴィアは声を荒らげるが、ルシアンは動じない。
「ええ。彼女は『痛みを消し去る』ことには長けているのでしょう。ですが、それは病そのものを治癒しているわけではない。ノエル自身の証言でも、体は楽になったが、内側で何かが重く淀んでいくような感覚があると言っています。彼女の治療の目的は、己の利益に繋ぐ為なのです。ノエルを救うことではありません。ただ『取り除いた痛みを穢れとして街に飽和させている』のです」
そして、ルシアンは最後にテーブルの上の『黒い箱』の裏蓋を開けた。
中には、細かいスリットの入ったガラス管が収められており、その中には――真っ黒のインクを吸い上げたような、不気味な色のドライフラワーが密閉されていた。
「……これは?」
「かつて王都を狂わせた、あの花の加工品です。本来は純白ですが、『黒魔術の穢れを吸収して黒く染まる』性質を持っています」
オリヴィアの息が止まる。
「この箱を、ノエルのベッドの下に隠していました。そして、イザベラ様がノエルに『治療』を施した結果が――この真っ黒に染まった花です」
覆せない、決定的な物的証拠。
それが意味するものを理解した瞬間、オリヴィアの顔から血の気が一気に引いていった。
「嘘よ……嘘よ! だって彼女は、教会の認めた聖女で……私に、公爵家に光をもたらしてくれた……っ」
「私はただ、彼女の行ってきたことの証拠を集めたに過ぎません」
ルシアンは、崩れ落ちそうになる母に手を差し伸べることはしなかった。
ただ、真っ直ぐな瞳で、オリヴィアを見下ろす。
「後は、母上がお決めください。公爵家として明日、どうなさるかは――母上の判断です」
ルシアンは一礼し、背を向けて扉へと向かった。
だが、ノブに手をかけたところでふと足を止め、振り返ることなく冷ややかに言い放った。
「ただ、これだけは言っておきます」
「……え?」
「『無能』と見下した相手を冷酷に切り捨て、肩書きや見栄えだけの『偽物』に縋りついた結果が――ノエルの命を脅かし、公爵家を破滅の危機に陥れたこの有様です」
ルシアンの言葉が、鋭い氷の刃のようにオリヴィアの胸に突き刺さる。
「母上は明日、大勢の貴族の前で、また同じ過ちを繰り返すおつもりですか?」
バタン、と。静かに、重い扉が閉められた。
◇ ◇ ◇
部屋には、オリヴィアだけが残された。
夜の静寂の中、ルシアンから言われた『また同じ過ち』という言葉が、頭の中で何度も反響している。
(また、同じ過ち……)
肩書きのない娘は婚約破棄させ、肩書きだけの偽物を招き入れた。
そのルシアンの指摘が意味するものを理解した瞬間、記憶の底から、控えめで不器用な少女の声が蘇った。
『……お義母様、ノエル様は少しずつお元気になられています。強い魔法に頼るよりも、毎日少しのお散歩で日光に当たるほうが、きっとお体には……』
魔力を持たない無能だと見下し、その地道な思いやりを「公爵家に相応しくない」と切り捨ててしまった少女――セラ・ローエン。
(……ああ)
オリヴィアの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
本質を何も見ていなかった。
家柄や魔力、「聖女」という肩書きばかりに目を奪われ、本当に大切なものが何一つ見えていなかった。
かつてセラを無能だと切り捨てた己の傲慢さが、そっくりそのまま、今回のイザベラへの盲信へと繋がっていたのだ。
(私は……公爵夫人として、母として……なんて愚かなことを)
虚栄心と焦りが生んだ、致命的な過ち。
もしルシアンが気づかなければ、ノエルは完全に穢れに飲まれ、公爵家は破滅していただろう。
オリヴィアは顔を上げ、テーブルの上の『真っ黒に染まった花』を真っ直ぐに見つめた。
もはや、泣いて悔やんでいる時間はない。
明日に迫った、王城での夜会。大勢の貴族が、自分とイザベラの言葉を待っている。
(このまま目を背けることなど、許されない)
オリヴィアは強く両手を握りしめた。
失った信用は戻らないかもしれない。セラの許しを得ることも叶わないだろう。
それでも、公爵夫人としての責任を果たさなければならない。
窓の外が、白々と明け始めていた。




