第9話 山の主は礼儀正しいらしい
目が覚めると、見覚えのない物が置いてあった。
ハンモックから降りて、近づいてみる。
え……でかい。
昨日の角うさぎより一回り大きい。丸々としていて、豚みたいだ。立派な獲物だった。
周囲を見回す。
少し離れた日の当たる岩場に、ふんわりとした大きな白銀の狼が座っていた。
青い瞳ですぐ分かった。でも、毛の色が昨日と全然違う。足先にかけて黒くなっており、グラデーションが綺麗だ。
そして、なんといっても、モフモフだ。
――近づいていいかな?
昨日あれだけの大きさと威圧感を間近で見たばかりだ。冷静に考えれば危ない気もする。
太陽の光を浴びてふかふかしていそうな背中を見ていると、どうしても指を埋めてみたくなる。絶対に柔らかくてあたたかいはずだ。
危ないと分かっていても、あの毛並みの感触が気になって仕方がない。触りたい。すごく、触りたい。
少しだけ距離を詰める。怒られたら、その時は逃げよう。
昨夜は、漆黒に青が混じる毛並みだったのに。
「昼は白いの?」
「そうだ」
「じゃあ昼はなんて呼べばいい?」
「ノクスでいい」
昨日、勢いで呼び始めただけの名前だった。
そのままでいいと言われると、なんだか少し嬉しい。
「夜の名前なのに?」
「今さら変える方が面倒だ」
思わず笑いがこぼれる。昨日より優しい声だった。
「また来てくれたの?」
「昨日の礼だ」
白い尻尾が、ふわりと大きく揺れた。
どこか誇らしげに胸を張っているようにも見える。
セラは獲物を見て、また顔を上げた。
「大きいね。一人じゃ多いかも」
ノクスは焚き火の跡へちらりと視線を向けた。鼻先がわずかに動く。
……もしかして昨日の焼いた肉、気に入ったのかな。
「今日も焼こうか?」
ついつい誘ってしまった。
ノクスは答えず、焚き火の前へ歩いてきた。
ゆったりと腰を下ろし、こちらを見る。
「……それ、食べるってことでいいんだよね」
「ああ」
◇
火を起こして肉を処理する。昨日と同じように丁寧に切り分けて、スパイスを少し多めに振る。
「昨日と同じ作り方か?」
「うん。このスパイス好きなんだよね」
ぱちぱちと薪が弾ける。肉の脂が滲んで、いい匂いが漂い始める。
「いい匂いがするな」
「でしょ。このスパイス、山で採れるやつなんだけど結構万能で」
「よく知っているな」
「……私ね、前世の記憶があるの」
この世界で初めて口にした。
「前世?」
「前の名前は、青山なつみ。日本っていう国で二十五年生きてたの」
「二十五年」
「うん。でも最後は、山で木の実を取ろうとして……足を滑らせたみたい」
自分の最期のことなのに、すんなり受け入れられている。
「それで、ここに生まれたのか」
「うん」
「前の生を捨てたわけではなく、抱えたまま生きているのだな」
「……そうなのかな」
言われてみれば、そうなのかもしれない。
前世の記憶は、もう遠い昔のものだと思っていた。けれど、料理の知識も、山での暮らし方も、今の自分を作っているものの一つだ。
ノクスはしばらくセラを見ていた。
馬鹿にするでもなく、驚くでもなく。ただ、その事実を静かに受け入れているようだった。
「変わった人間だな」
「よく言われる」
「自分でも認めるのか」
「だって、よく分からないことするって言われるし」
セラが苦笑すると、ノクスの耳がわずかに動いた。
「この山に来たのも、前世の影響か」
「まあね」
焼ける肉の匂いが、森の中へゆっくり広がっていく。
「前の人生では、忙しくて山に来る時間なんてあまりなかったから。今は好きなことをいっぱいしたいなって」
「そうか」
「それに婚約破棄されちゃって、ちょうどやることもなくなっちゃったし」
「婚約破棄?」
聞き慣れない言葉を確かめるように、ノクスが繰り返す。
「人間の間では、それほど珍しいことなのか」
「どうだろう。でも、何が起こるか分からないものだよね」
セラはそう言って、肉の焼き具合を確かめた。
表面には香ばしい焼き色がつき、脂が弾けるたびにいい匂いが広がる。
「さぁ、できたよ」
切り分けた肉をノクスの前へ置いた。
「このお肉、初めて食べる! 美味しいのかな」
「我が獲った肉だ。美味しいに決まっている」
「スパイスは?」
「……いいのではないか」
素直じゃないなと思いながら、セラ笑った。
「前世の話、他の人間には話したのか」
「ううん。信じてもらえないから」
「そうか……我は信じる」
セラの手が止まる。
そんな言葉を言ってくれるとは思っていなかった。
「知ってた」
「なぜだ」
「なんとなく」
ノクスは理解できないものを見るようにセラを見た。
「ねえ」
少しだけ迷ってから、セラは口を開いた。
「私、ここに住んでもいい?」
ノクスは考えながら、残った肉をゆっくり食べている。
「好きにしろ」
素っ気ない言葉だった。
それでも、受け入れてくれたようで嬉しかった。
◇
その周囲で、小さな光がいくつか、ふわりと集まってきた。
――あ、主が今日も来てる。
――うん。珍しいね。
――このコのこと、気に入ったのかな。
――みたいだね。
光は静かに揺らめいて、また空間へと散っていった。




