第8話 山の主、現る
肉を焼いていると、森が静かになった。
さっきまで聞こえていた虫の音が、ふっと消えた。風も、止んでいる。
手を止めて、顔を上げた。
「?」
何かがいる。そう思った瞬間、木々の影の中に、青い光が二つ浮かんだ。目だろうか……でも動かない。ただ、ずっとこちらを見ている。
そしてでかい。あの高さで、あの大きさでしょ……。怖すぎる。
影の奥で、その輪郭がゆっくりと浮かび上がる。黒い毛並みは、光を吸い込むみたいに深くて、ところどころにわずかに青が混じっていた。夜みたいな色だ、と思った。
逃げられるか。
考えた瞬間、答えが出た。絶対無理だ。
だったらどうしよう……餌付けしてみる? もう、それしか思いつかない。
焼いていた肉を、火から外す。手が震えて落としそう。
「どうぞ……」
食べて! 頼むから、これ食べて帰ってぇぇ……!
ついでに護符も出した。兄がくれた魔物避けだ。『多少は効く』って言ってたけど、変化は……ない。―― えっ、効いてない?
「これ、効いてないの!?」
「そんなもの、底辺の魔物にしか効かぬ」
――喋った?
え、話が通じるの?
少なくとも、問答無用で襲ってはこなさそう。
それなら、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
「……兄、ありがとうって思ってたんだけど」
影はゆっくりと近づき、差し出した肉を一口で食べた。
……よかった。
少なくとも、今は私じゃなくて肉を選んでくれた。
セラは恐る恐る一歩踏み出した。一歩、また一歩。
ぴく、と狼の耳が動く。だが、それ以上の反応はなかった。
「あなた、強そうね?」
巨大な狼の動きが、わずかに止まった。
「……我を知らぬのか」
セラは首をかしげた。
(え。知ってる前提なの?)
「知らない」
「……本気で言っているのか。フェンリルという名を聞いたこともないのか」
(あ、それなら聞いたことある)
「絵本で見たことある。聖女さまと一緒に出てくるやつ」
でも、細かい話は思い出せない。
「ほう。人は我を、そのように語り継いでいるのか」
ノクスは鼻を鳴らした。
「好き勝手に話を膨らませるのは、昔から人の常だ」
「へえ」
セラは頷いて、残りの肉を火にかけ直した。
「もう少し焼けるけど、食べる?」
「貰おう」
2枚目を食べているのを眺めながら、セラはぼんやりと考える。
山の主。フェンリル。たぶん、とても偉い存在なんだろう。
でも、焼いた肉はちゃんと美味しそうに食べてくれる。……いい子かもしれない。
「なぜ逃げなかった」
唐突に、声がした。
「逃げるの、無理そうだったから」
「それだけか。我を見て恐怖で喚きもせず、肉を差し出す人間など初めてだ」
「だって、美味しそうに食べてたし。悪い子じゃないのかなって」
あまりにも緊張感のない答えだった。
しばらく黙ってセラを見つめ、それから小さく鼻を鳴らした。
「セラよ。私の名前」
「セラ」
「あなたは?」
「名乗るような名など無い」
「そうなの」
セラは少しだけ、目の前の美しい毛並みを見る。やっぱり、夜の色だ、と思った。
「ノクス……。そんな感じ」
なんとなく、口に出していた。
「……好きに呼べばいい」
しばらくして、フェンリルはゆっくりと立ち上がった。こちらを一度だけ見て、そのまま山の奥へと向かっていく。青い光が、闇の中に溶けていった。
「またね」
小さく手を振る。返事はなかった。
優しい風が吹いて、いつの間にか山の中の虫の音も戻っていた。
喋ってた。意外と話の分かる相手だったかも、と思った。
それにちょっと安心した。いや、安心していい相手なのかは分からないけれど。
焚き火の前に座り直して、自分用の肉をひっくり返す。
「……なんだったんだろう、あの子」




