第84話 揺れた針
ルシアンがノエルに『観測箱』を渡した五日後。
イザベラによる定期的な『治療』の日がやってきた。
ノエルはベッドの上で、シーツの下で密かに手を握りしめ、静かに深呼吸を繰り返していた。
(……大丈夫、僕ならできる)
視線の先には、ベッド脇のサイドテーブル。少しだけ開いた引き出しに、兄上から預かった黒い『観測箱』を潜ませてある。
兄上からは「何か反応があれば教えてほしい」とだけ言われている。何を調べるためのものかは詳しく聞いてないけれど、あの夜に見せた兄上の瞳から、これが極めて重要な役目であることだとわかった。
前回の治療の際に見えた、母を誘導するようなイザベラの言葉運び。そして、兄の強い警戒。
ノエルの中で、彼女に向ける視線は以前の『ただの優しい聖女様』から確実に変わっていた。
コンコン、と穏やかなノックの音が響き、扉が開いた。
「ノエル様、調子はいかがですか?」
部屋に入ってきたのは、いつもと変わらない、陽だまりのように優しい笑顔を浮かべたイザベラだった。その後ろには、ノエルを心配そうに見つめる母オリヴィアが続いている。
「……イザベラ様、母上。わざわざありがとうございます」
「いいえ。ノエル様が元気になってくれるのが、私にとっても一番の喜びですから」
微笑みながらベッドの傍らに腰を下ろすイザベラ。その声音はひたすらに甘く、献身的だ。母オリヴィアも「本当に、イザベラ様には感謝してもしきれないわ」と目を細めている。
表面上は何も変わらない、心温まる治療の風景。
だが、兄の言葉を意識して観察している今のノエルには、その完璧すぎる『聖女の振る舞い』が、どこか得体の知れない不気味なものに思えてならなかった。
「では、今日も痛みを和らげますね」
イザベラがそっとノエルの胸元に手をかざす。
痛みがスッと引いていく感覚。それは確かに、いつもの『治療』だった。
ノエルは寝たふりをするように薄く目を閉じながら、視線だけをサイドテーブルの引き出しに向けた。
(……!)
暗い引き出しの奥。黒い箱の表面に組み込まれた小さな銀色の針が、カチッ、カチッと不規則に震え、やがて振り切れるように大きく傾いた。それに呼応するように、箱の内部に仕込まれた小さな魔石が淡く明滅している。
(針が、動いた……。これが、兄上の言っていた反応……?)
それが何を意味するのか、幼いノエルには分からない。これが即座に彼女の『悪意』を示す証明なのかどうかも断定はできない。
だが――少なくとも、兄がこの箱を託した理由は確かに存在したのだ。
その事実だけが、ノエルの胸に重圧としてのしかかる。
ふと、イザベラの手がピタリと止まった。
「……?」
イザベラは僅かに眉を寄せ、部屋の隅へと視線を巡らせた。
「イザベラ様? どうかしたの?」
「いえ……何でもありません。気のせいですね」
ほんの一瞬だけ、力が引っ張られるような感覚。
理由は分からないが、違和感を感じた。しかし、部屋には無力な病人と、自分を信じ切っている公爵夫人しかいない。彼女はそれ以上気にかけることなく、ふんわりとした笑顔を作って再び治療へと意識を戻した。
やがて治療が終わり、二人が部屋を出ていく。
扉が完全に閉まり、足音が遠ざかったのを確認すると、ノエルは跳ね起きるようにしてサイドテーブルの引き出しを開けた。
震える手で、黒い観測箱を取り出す。
箱の表面にある銀色の針は、イザベラが魔法を使っていた時と同じ位置でカチリと固定されていた。
「これを……兄上に、見てもらわないと……」
誰にも聞こえないほどの小さな呟き。
だがその震える声には、かつての怯えるだけだった少年のものではない、家族のために踏みとどまろうとする確かな決意が宿っていた。




