第80話 弟の勇気と、静かに置かれた布石
その日の夜。
屋敷が寝静まった頃を見計らい、ルシアンは音もなくノエルの部屋を訪れた。
扉を開けると、ノエルは眠らずにベッドの上で待っていた。ランプの淡い灯りに照らされたその顔は、いつになく真剣な色を帯びている。
「……遅くなってすまない。気分はどうだ」
「大丈夫です、兄上。……それより、聞いてほしいことがあります」
ルシアンがベッド脇の椅子に腰を下ろすと、ノエルは少しだけ身を乗り出し、昼間に起きた出来事を語り始めた。
自分が寝たふりをしていたこと。イザベラが「自分が屋敷を離れている間に病が進行するのが心配だ」と涙ぐみながら語ったこと。
そして、それに心を痛めた母上が、「本当の家族になって、ずっとこの家にいてほしい」と自ら口にしたこと。
「言葉も顔も、すごく優しかったんです。……でも」
ノエルはシーツを強く握りしめ、僅かに肩を震わせた。
「兄上に言われたことを思い出しながら聞いていたから、違和感に気づいたんです。イザベラ様は自分から『結婚したい』とか『この家にいたい』とは一言も言っていません。ただ、僕の病気を心配して泣いて……母上がご自身で『家族になってほしい』と言うように、言葉を誘導しているみたいでした……」
ノエルのその素直で、しかし的確な観察の告白に、ルシアンは静かに頷き、弟の震える小さな手を自身の大きな手でしっかりと包み込んだ。
「……よく教えてくれた、ノエル。一人で怖い思いをさせてすまなかったな」
兄の低く落ち着いた声と、手から伝わる温もりに、ノエルの強張っていた肩がふっと下がる。
ルシアンは内心で、静かに思考を巡らせていた。
(ノエルの言う通りだ。病を盾にし、義母上の罪悪感につけ込んで自ら迎え入れるよう仕向けている。ノエルだけ治療の回数が異常に多いのも、義母上に近づき、恩を売り続けるための口実か……)
「兄上は……やっぱり、イザベラ様を疑っているんですよね」
「そうだな。大書庫で見つけた術と酷似しているものもあったんだ。ノエルの証言とも一致する事も。ただ、推測だけではだれも彼女を止められない。誰にも覆せない事実がないと」
その冷静さは、公爵家を背負う次期当主としての揺るぎない矜持だった。
ルシアンは懐から、手のひらサイズの小さな黒い箱を取り出し、ノエルの手元へと置いた。
「これは?」
「魔力反応を測定する道具だ」
「測定……?」
「まだ確証はないが、わかる事があるかもしれないからね。ノエルの側に置いておきたいんだ。あの女が『治療』と称して何を行っているのか、その痕跡を記録するために」
ルシアンはノエルの目を真っ直ぐに見据えた。
「普段は引き出しの奥に隠しておいてくれ。そして、治療の時だけ見えない場所に潜ませるんだ。決して無理はしなくていい。気づかれそうになったらすぐに捨ててもいいから」
「……はい。分かりました」
ノエルは小さな箱を両手でしっかりと包み込み、力強く頷いた。
ルシアンが立ち上がり、部屋を出ようと踵を返したその時。
「……兄上」
「なんだ」
ノエルは少しだけ視線を泳がせ、それでも意を決したように兄の背中へと言葉を投げた。
「……僕、役に立てましたか?」
その問いに込められていたのは、ただの自己満足ではない。生まれつき体が弱く、誰かに守られるだけの存在だった自分が、初めて『家族のため』に踏み出した一歩。それが正しかったのかを問う響きだった。
ルシアンは少しの間だけ黙り、やがて静かに振り返って微笑んだ。
「十分すぎるほどにな」
その一言に、ノエルの顔にパッと花が咲いたような安堵と喜びが広がるのを見届け、ルシアンは静かに部屋の扉を閉めた。
誰もいない暗い廊下を歩きながら、ルシアンは小さく息を吐き出す。
(あれほど怯えていたにも関わらず、よくやった)
あの女の正体を暴くための布石は、少しずつ整いつつある。




