第79話 寝耳に水の婚約話と、小さな観察者
ノエルの部屋を後にしたルシアンは、誰もいない廊下を歩きながら、ふとピタリと足を止めた。
頭の中は、大書庫で見つけた禁忌の術の記述と、今後の対策で埋め尽くされていたはずだった。
しかし、先ほどノエルと交わした会話の中で、一つだけどうしても聞き流せない、強烈な違和感を持つ言葉があった。
『兄上とイザベラ様が婚約されたら安心だって、母上がよく話しているんです』
(……結婚? 私と、あの女が?)
ルシアンは眉間を深く揉み込んだ。
初耳である。ただの一度も、そんな話を聞かされた覚えはない。
(いつの間に、私の婚約の話題になっているんだ……?)
単なる使用人の噂話なら放っておくが、出所が義母であるなら話は別だ。
ルシアンは踵を返し、オリヴィアが過ごしているであろうサロンへと足を進めた。
◇ ◇ ◇
「義母上、お時間よろしいでしょうか」
「あら、ルシアン。どうしたの、珍しいわね」
優雅に紅茶を傾けていたオリヴィアは、ルシアンの姿を認めると、ふわりと上機嫌な笑みを浮かべた。その表情は、ノエルの容態が悪化して嘆き悲しんでいた数時間前とは別人のように明るい。
「少し、確認しておきたいことがありまして。……私とイザベラの婚約話とは、一体何のことですか」
ルシアンが単刀直入に切り出すと、オリヴィアは悪びれる様子もなく、むしろ「素晴らしいアイデアでしょう?」と言わんばかりに両手を合わせた。
「ああ、ノエルから聞いたのね! 何のことも、あなたたちは本当にお似合いではありませんか」
「義母上。私は一度も了承した覚えは――」
「イザベラはノエルを救ってくれる。そして、次期当主であるあなたを内側から支えてくれる。彼女と家族になれば、皆が幸せになれるのよ」
ルシアンの言葉を遮るように、うっとりと夢見るように語るオリヴィア。
その瞳には、一抹の疑いすら存在しなかった。イザベラを疑うどころか、彼女がいなければ公爵家は立ち行かないと、完全に依存し切っている。
(……思ったよりも、深刻だな)
ルシアンは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
ここで「彼女の力は偽物だ」と正論をぶつけたところで、今の義母には絶対に届かない。
ルシアンは感情を完璧に殺した一礼を残し、早々にサロンを後にした。後戻りできないところまで外堀を埋められる前に、あの完璧な仮面を叩き割る証拠が必要だった。
◇ ◇ ◇
翌日の午後。
ノエルの部屋には、いつものように甘い香りを纏った純白の聖女――イザベラが訪れていた。
「ノエル様、今日もお加減を診させていただきますね」
優しく微笑みかけてくるイザベラ。
昨日までのノエルなら、その微笑みに安心し、すべてを委ねていただろう。だが、今のノエルはシーツの下で小さな拳をぎゅっと握りしめ、イザベラの顔をしっかりと見つめ返していた。
「……はい、よろしくお願いします」
イザベラの手が胸元にかざされ、すうっと表面の痛みが引いていくのと同時に、やはりあの「重く、冷たく、自分が暗い水底へと沈められていくような感覚」が襲ってきた。
ノエルは必死に瞬きをし、意識を保とうと踏ん張る。そして、薄く開けた目の隙間から、イザベラとオリヴィアの会話に耳を澄ませた。
「ああ、イザベラ……今日も本当にありがとう。あなたの力は、ノエルにとって欠かせないわ」
「もったいないお言葉ですわ、オリヴィア様。……でも、ノエル様のお苦しみを見るたび、私は自分の無力さが不甲斐なくて……」
イザベラは、ひどく思い詰めたような、痛切な表情を作った。
「私にできることなら、命に代えても何でもしたいのです。けれど、私が屋敷を離れている間にも、ノエル様のお体は病に耐えていらっしゃる……。それが、どうしても心配で……」
目を伏せ、今にも泣き出しそうな聖女の姿に、オリヴィアはたまらないというように彼女の手を握りしめた。
「ああ、なんて優しいの……。ならばイザベラ、あなたが本当の家族になってくれればいいのよ。そうすれば、ずっとこの家でノエルを見守り、ルシアンを支えることができるわ」
「オリヴィア様……私のような者が、そのような……」
イザベラは謙虚に首を振りながらも、その言葉を否定することはなかった。
「……っ」
寝たふりをしながらそのやり取りを聞いていたノエルは、シーツの下で小さく身震いをした。
言葉も、表情も、どこまでも優しく献身的だ。
(……なんだろう。すごく、嫌な感じがした)
自分が心配されているはずなのに、まるで冷たいヘビが肌の上を這いずり回っているような、得体の知れない気味悪さ。
(兄上が言っていた、違和感……)
ノエルは固く目を閉じた。
何がどうおかしいのか、今のノエルにはまだ分からない。けれど本能が、あの美しい聖女を『恐ろしい』と告げていた。
(僕はずっと守られてばかりだった。でも今度は違う。兄上の力になりたい。この違和感を、ちゃんと伝えなくちゃ)
小さな観察者は、冷え切った体で静かな決意を固めていた。




