第78話 密やかな歩み寄りと、病床の証言
大書庫での調査を終えたルシアンは、再び邸内を歩いていた。
向かう先は、弟・ノエルの部屋だ。
ノエルとは、決して仲が悪いわけではない。ただ、彼が生まれつき病弱で部屋に籠もりがちだったことや、ルシアン自身が次期当主としての教育や社交に追われていたこともあり、二人の間にはどこか一線引いたような、微妙な距離感があった。
コンコン、と静かに扉を叩く。
返ってきたのは、少し驚いたような弟の声だった。
「どうぞ」
ルシアンが部屋に入ると、ベッドの上で上半身を起こしたノエルが、目を丸くしてこちらを見ていた。
「兄上……? 珍しいですね。お見舞いなら、さっき母上と一緒に来てくださったと聞きましたが」
「ああ。さっきは義母上もいたからな。少し、お前と二人で話がしたくて戻ってきた」
「僕と、二人で……ですか?」
ノエルは少し嬉しそうに笑った。
「母上が聞いたら驚きますね。最近ずっと、兄上のお話ばかりしているので」
「私の?」
「はい。兄上とイザベラ様が結婚されたら安心だって、母上がよく話しているんです」
ルシアンの眉が微かに動いたが、ノエルは少しはにかむようにして続けた。
「僕も……兄上が幸せになれるなら、それはすごくいいことなんだろうなって思ってました。イザベラ様は母上にも優しいですし、僕のことも助けてくださるから」
「……そうか。その、イザベラの治療のことで少し聞きたいんだ」
ルシアンはベッドの傍らにある椅子を引き、そこへ腰を下ろした。
「イザベラの術を受けて、本当に楽になっているか?」
ルシアンの問いかけに、ノエルは「はい」と頷いたものの、どこか歯切れが悪かった。
「……どうかしたのか?」
「その……こんなことを言ったら、母上に怒られてしまうかもしれないんですけど……」
ノエルは躊躇うように言葉を濁したが、ルシアンが静かに待っていると、ぽつぽつと胸の内を明かし始めた。
「イザベラ様に治療してもらうと、胸の苦しさも痛みも一瞬で消えるんです。でも……なんていうか、治ったっていうのとは違う気がして」
「どう違う?」
「痛くないのに、ご飯を食べたいとも思わないし、ただなんとなく体が重いし、痛かったところが冷たいようなそれに……」
ノエルは自分の細い腕を抱きしめるようにして、震える声で言った。
「時々、自分がどこか遠くへ沈んでいくみたいで……目を閉じるのが、少し怖いんです」
『苦痛を喰らい、表層の感覚を奪い去る術。対象の肉体の奥底に無理やり封じ込めているのみである』
(……大書庫の記述と、似ている)
ノエルのその生々しい証言は、あの禁忌の術理をなぞっているかのようだった。
(だが、まだ確証がない。確固たる証拠を掴むまでは……)
ルシアンは内心の焦燥を押し殺し、真っ直ぐにノエルを見つめた。
「ノエル、正直に話してくれてありがとう。お前のその感覚は、おそらく正しい」
「え……?」
「まだ確固たる証拠があるわけではない。だが、私はイザベラのあの力に強い疑念を抱いている。あれは、お前の病を根本から癒やすものではない可能性が高い」
「イザベラ様の力が……?」
ノエルは息を呑んだ。驚きは大きいはずだ。ついさっきまで「兄上が幸せになれる相手」だと思っていた人物を、兄自身が疑っているのだから。
だが彼がイザベラを全盲信していないからこそ、その瞳には真剣に兄の言葉を受け止めようとする色が浮かんでいた。
「私はこれから、あの力の正体を暴くための調査を始める。イザベラが公爵家で何をしようとしているのか、その裏を掴むつもりだ」
ルシアンはそこで一度言葉を切り、少しだけ身を乗り出した。
「だが、相手は今や義母上を完全に味方につけている。私一人の手では、邸内の動きを完全に把握するのは難しい。……ノエル、お前に協力してほしい」
「僕に……協力、ですか?」
ノエルは戸惑うように目を伏せた。
「でも、僕なんかに何ができるんでしょうか。いつもベッドの上にいて、みんなに守ってもらってばかりなのに……」
「いや、お前だからできることがある」
ルシアンの力強い言葉に、ノエルが弾かれたように顔を上げる。
「誰よりも近くで彼女の『治療』を受け、そして義母上の側にいるお前だからこそ、見えるものや聞ける言葉があるはずだ。……頼めるか?」
次期当主候補として常に完璧だった兄から、初めて向けられた明確な「信頼」と「頼み事」。
ノエルは驚きに目を見張りながらも、その瞳に静かな、しかし確かな光を灯し始めていた。




