第77話 大書庫の古文書と、浮かび上がる『闇』の可能性
公爵家の奥深くに位置する大書庫。
陽の光も差し込まないその場所は、何百年もの間蓄積された膨大な書物の独特の匂いが漂う。
「……違う、これでもない」
ルシアンは微かに揺れる魔力ランプの明かりを頼りに、分厚い古文書のページを捲り続けていた。
彼の周囲には、すでに数十冊の歴史書や魔導書、教会の古い記録などが山のように積まれている。弟のノエルの部屋を後にしてから、すでに数時間が経過していた。
ルシアンが探しているのは、過去の『聖女』たちが残した治癒の記録と、それに反する『禁忌』の術式についての記述だった。
彼は手元にある、教会が編纂した『歴代聖女の奇跡』という書物に視線を落とす。
『――聖女の放つ光は、大いなる浄化である。それは対象の内に巣食う淀みを根源から消し去り、生命そのものを底上げし、本来の健やかさを取り戻すものである』
その一文を読み、ルシアンは深く頷いた。
間違いない。かつて王都の地下深くで、セラが地脈に聖水を流し込み、歪んだ空気と水路の澱みを一掃して蘇らせた時のあの光。
彼女の力は、まさにこの文献に記されている通りの『本物』だった。触れるだけで心が洗われ、内側から活力が湧き上がってくるような圧倒的な浄化の力。
それに引き換え、イザベラの力はどうだ。
ルシアンは、先ほどノエルの部屋で見た光景を脳裏に再生する。
ノエルの苦痛は確かに消えていた。しかし、顔色は青白いままで、生命力が高まっている様子は微塵もなかった。
あれは『癒やし』ではない。ただ表面の感覚を奪い、痛みを麻痺させ、病の進行という現実から目を逸らさせているだけに見える。
「ならば、あの不自然な治癒の正体はいったい何だ……?」
ルシアンは再び書棚へと向かい、さらに古い、一族の当主とごく一部の人間しか立ち入りを許されない『禁忌指定』の棚へと手を伸ばした。
引き抜いたのは、背表紙の文字すら擦り切れた、ひどく古い魔導書だった。
パラパラとページを捲り、ある項目でルシアンの手がピタリと止まる。
そこに書かれていたのは、イザベラがノエルに手を翳していた時と酷似した、内容だった。
「……これか」
ルシアンは息を呑み、ランプの明かりを近づけてそのかすれた文字を追った。
『――苦痛を喰らい、表層の感覚を奪い去る術。一見して奇跡の治癒に似るが、決して騙されてはならない。これは根源の病魔を癒やしているのではなく、対象の肉体の奥底に無理やり封じ込めているのみである』
ルシアンの瞳が鋭く細められる。
戦慄すべきは、その後に続く記述だった。
『――この術は、ただ対象を害するための単純な呪いなどではない。明確な「代償」を伴う、等価交換の術理である。痛覚を奪い去り、見せかけの治癒を施す代わりに、術の維持のために巨大な『何か』を削り取っていく。これこそが、古より伝わる禁忌の術の神髄である』
「……『代償』だと?」
ルシアンは魔導書から顔を上げ、暗い虚空を見つめた。
(あまりにも酷似している……。だが、これがイザベラの使っている力と完全に一致していると断言するには、まだ証拠が足りない)
もし仮に彼女がこの『禁忌の術』を使っていたとして、ノエルの顔色がいつまでも青白いのは生まれつきの病弱さゆえであり、彼自身の生命力そのものが急激に削り取られている様子はない。
だとしたら――彼女はいったい『何』を代償にしているのか? 本当にこの術なのだろうか?
今すぐ彼女を問い詰めたい衝動に駆られるが、ルシアンはギリッと奥歯を噛み締め、その感情を冷たい理性の奥底へと沈め込んだ。
憶測だけで動くわけにはいかない。
相手は今や、王都で『聖女』として名を馳せている存在だ。
(もし推測が間違っていれば……。あるいは、証拠不十分で逃げられでもすれば、最も深く傷つくのは、すっかり彼女を信じ切っている義母上と、見せかけであれ痛みを消してくれる『光』を絶たれるノエルだ)
脳裏に、ベッドで苦しそうに咳き込む弟の顔がよぎる。
自分の一時の感情で、大切な家族を危険に晒すわけにはいかないのだ。
「……完璧な証拠が必要だ」
ルシアンは魔導書を静かに閉じ、決意を込めた瞳で暗い書庫の奥を見据えた。
言い逃れの一切できない、確固たる証拠。
それを見つけ出し、ノエルを救い、義母の目を覚まさせるためには――。
ルシアンはランプの火を消し、静かに反撃のための盤面を組み立て始めた。




