第76話 初めから、信じていなかった
ローエン家の執務室。
大きなデスクに向かっていたエリオは、手元に届いたばかりの報告書に目を通し、小さく息を吐いた。
「……何をやっているんだか」
リアナから送られてきたその報告書には、イザベラの元スパイである侍女アリシアが店の裏口に現れ、ゼインに怯えながら映像を撮り――あろうことか、ちゃっかり石鹸を二つ買って帰ったという顛末が記されていた。
エリオは呆れたように苦笑しつつ、手の中の羊皮紙を閉じた。
「イザベラも、いよいよこちらの盤面に探りを入れ始めたか。だが、あの侍女の様子なら当面は大丈夫だろう」
石鹸の販売網、情報収集の罠、そしてイザベラへの牽制。
すべてはエリオの描いた筋書き通りに進んでいる。イザベラがどれほど焦って裏を探ろうとも、彼女の動向はこちらに筒抜けなのだ。
エリオは椅子に深く背を預け、執務室の窓から広がる王都の景色――その中心にそびえる公爵家の豪奢な屋敷へと視線を向けた。
(そういえば、最近ルシアン様をお見かけしないな)
自分と同じくセラの『本物の力』を知っている、王都では数少ない同士の顔を思い浮かべる。
(オリヴィア様がイザベラを重用し、すっかり取り込まれている裏で、あの方も独自に何かを調べて動いておられるようだが……)
エリオはルシアンの聡明さを知っている。
彼がこのまま何も気づかず、イザベラという『偽り』に公爵家を乗っ取られるような男ではないと確信していた。
「……さて。あちらの盤面は、どう動くか」
エリオは静かに目を細め、机上の書類へと再び視線を落とした。
同時刻、公爵家の一室。
分厚いカーテンが引かれ、薄暗く保たれたその部屋には、重苦しい静寂と薬草の匂いが立ち込めていた。
「……っ、げほっ、ごほっ……」
天蓋付きの大きなベッド。そこに横たわっているのは、抜けるように白い肌と細い手足をした少年――ルシアンの異母弟であるノエルだった。
彼は荒い息を吐きながら、苦しげに眉をひそめている。
「ノエル……可哀想に。またお加減が……」
ベッドの傍らでは、公爵夫人であるオリヴィアが、痛切な面持ちで息子の細い手を握りしめていた。
ノエルは生まれつき体が弱く、一年の大半をこうしてベッドの上で過ごしている。夜も眠れずに苦しむ我が子を見守るしかできない無力感に、オリヴィアは長年、身も心もすり減らし続けてきた。
そして、その様子を部屋の少し離れた壁際から、静かに見守るルシアン。
彼は最近、表立った社交の場に顔を出すことを極力控え、自室や書庫に籠もることが増えていた。だが、弟の容態が良くない時は、こうして黙って見舞いに訪れているのだ。
その時、静かに部屋の扉が開いた。
「オリヴィア様。ノエル様のお加減がよろしくないと伺いまして」
ふわりと甘い香りを漂わせながら現れたのは、教会の威厳を示すような聖女の服に身を包んだイザベラだった。
彼女の姿を見た瞬間、オリヴィアの張り詰めていた表情がふっと緩む。
「ああ、イザベラ……! この子が苦しむたび、私はどうしてやることもできなかった。けれど、あなたが来てからというもの……どうか、今日もこの子をお願いできるかしら?」
「ええ、もちろんですわ。私にお任せください」
イザベラは身内に向けるような親しげな微笑みを浮かべると、ベッドに近づき、ノエルの胸元に両手を翳した。
彼女の手から、力が放たれる。
「……あ……」
数秒後。
あんなに苦しそうに咳き込んでいたノエルの呼吸が、嘘のようにスッと落ち着いた。険しかった眉間からシワが消え、まるで深い眠りに落ちたかのように静かな寝息を立て始める。
「……イザベラ、いつも本当にありがとう。あなたのその力は、我が家の救いよ」
オリヴィアは涙ぐみながら安堵の溜息をつき、イザベラの手を両手で優しく包み込んだ。
イザベラは「聖女としての使命ですから」と謙虚に目を伏せてみせる。
だが――。
その光景を部屋の隅から見つめていたルシアンの瞳は、極めて冷ややかだった。
(……救い、だと?)
ルシアンは、ベッドで眠るノエルの顔をじっと観察した。
確かに苦痛は消え去っている。だが、その顔色は依然として青白く、生命力に満ち溢れているようには到底見えなかった。
ルシアンは知ってしまった。
かつてセラが作り出し、彼自身の手で触れた『本物の聖水』――あの、圧倒的で清らかな浄化の光を。
セラの力は、病や淀みを根源から取り除き、触れるだけで心が洗われるような温かさと、生命そのものを底上げするような力強さに満ちていた。
それに引き換え、今イザベラの力はどうだろう。
清らかさなど微塵もない。どこか淀んでいて、不自然だ。
病の根源を浄化して癒やしているのではない。ただ表面の痛覚を麻痺させ、本当の症状を無理やり体の奥底に『蓋をして隠している』だけに見える。
同じ『治癒』を謳いながら、まるで別物だ。
(……何かがおかしい。これは絶対に『聖女の力』などではない)
ルシアンは、無自覚に拳を強く握りしめた。
もし自分の推論が正しければ、イザベラは聖女どころか、公爵家を内部から蝕む恐ろしい毒そのものだ。
しかし、今の義母は完全にイザベラを内側に取り込み、盲信している。明確な証拠もないまま糾弾したところで、聞く耳を持たないだろう。
「……失礼する」
ルシアンは短く告げると、イザベラと義母には目もくれず、静かに部屋を後にした。
向かう先は、公爵家の奥深くに眠る大書庫。
あの『不自然な力』の正体はいったい何なのか。ルシアンは自らの手で真実を探り当てる決意を固めていた。
一方、パタンと重い扉が閉まり、ルシアンの足音が遠ざかっていった後のノエルの部屋。
「……ルシアン様、最近はずいぶんとお疲れのようですわね」
イザベラが心底心配そうに眉を下げて呟くと、オリヴィアは痛切な面持ちで小さく頷いた。
「ええ……。本当なら、ノエルが早く元気になって、公爵家を担う重責をあの子と分かち合ってくれればいいのですが……。今の状態では、いずれルシアン一人にすべてを背負わせることになってしまいます。その重圧たるや、計り知れませんわ」
「そうですね……。ルシアン様も、お一人で背負い込むにはあまりにも過酷です。ノエル様が健やかに過ごされるためにも、今の公爵家には安らぎが必要不可欠ですわ」
イザベラは眠るノエルの額を慈しむように撫でながら、憂いを帯びた声で言葉を紡ぐ。
「オリヴィア様のお心の重荷を分け合い、ルシアン様を内側からお支えできる『家族』のような存在が……この家に癒やしをもたらす温かいパートナーがいれば、皆様どれほど救われることでしょう」
「ええ、本当に……!」
その言葉に、オリヴィアはすがりつくようにイザベラの手を両手で握りしめた。
「イザベラ……あなたのような方がずっとこの公爵家に、私やあの子たちの『家族』として側にいてくだされば、私はどれほど心強いことか……!」
「ふふ……。私も、大好きなオリヴィア様とノエル様のお力になりたい……ずっと、寄り添わせていただきたいと心から願っておりますわ」
イザベラは、聖女としての慈愛に満ちた微笑みを浮かべてみせる。
しかしその胸の奥には、決して手放したくないものへの執着が静かに渦巻いていた。
今更なお知らせになってしまうのですが……
現在展開中の第二シーズンは王都での出来事がメインとなるため、主人公のセラがあまり出てきません(*´-`)
ですが、続く第三シーズンではセラたちもたっぷり登場する予定ですので、どうか今しばらく王都組の奮闘にお付き合いいただけると嬉しいです!




