第75話 完璧な推理と、致命的な盲点
教会の一室。
豪奢なソファに深く腰掛けたイザベラは、苛立たしげにテーブルの上の『石鹸』を見つめていた。
「……申し訳ございません、イザベラ様。裏口には恐ろしい顔をした大男が立っておりまして、これ以上は近づけませんでした……。ですが、仰せの通り映像は撮ってまいりました!」
床に跪き、ガタガタと震えながら報告するアリシアを軽視し、イザベラは吐き捨てた。
「……使えない女ね。下がっていなさい」
「は、はいぃっ!」
逃げるように退室していくアリシアの背中を見送り、イザベラはテーブルに置かれた『映像記録魔石』を手に取った。
魔力を流し込むと、空中にポンと光の映像が投影される。
映し出されたのは、王都で今最も話題となっている石鹸の店、『ラ・ピュール』の店内と、その裏口の短い映像だった。
(……なるほど。これが例の店)
イザベラは映像を分析していく。
まず目についたのは、店内にひしめき合う客層だ。
「ここまで広がっているの……?」
映像の中には、名だたる貴族の夫人や令嬢たちが群がり、熱心に石鹸を買い求めている姿が映っていた。
公爵夫人であるオリヴィアを通じて、王都の貴族社会における『聖女』としての立場を確固たるものにしつつあるイザベラにとって、自分以外のものに貴族の女たちが熱狂している状況は、非常に不愉快だった。聖女の奇跡と完全に競合しているからだ。
不機嫌になりながらも目を細めながら眺めていたが、映像が『裏口』の様子に切り替わった瞬間――イザベラは鋭い目つきになり、魔力で投影をピタリと一時停止させた。
アリシアが怯えながら適当に撮ったであろう、裏口の木箱の山。一見ただの荷物に見えるが、イザベラの目はその木箱の隅に焼き印された『小さな紋章』を見逃さなかった。
「……やはり。ローエン家ね」
以前の石鹸の騒動も、ローエン家。
今回の石鹸屋の裏にいるのも、ローエン家。
さらに、アリシアが「恐ろしい顔の男」と言っていた、裏口を塞ぐように立つ巨体の男。映像の端に見切れたその男の顔の古傷を見て、イザベラは鼻で笑った。
「平民の店に、ローエン家の従者が護衛についている……。随分と過保護なことね。エリオ・ローエンが裏で糸を引いているのは間違いないわ」
ここまではいい。予想通りだ。
問題は――『映っていないもの』である。
「……誰がこの製法を考えたの?」
ポツリと、イザベラは呟いた。
店主であるリアナという平民の娘に出来るのは、せいぜい教えられた通りの『手作業』ぐらいだろう。あんな小娘の頭一つで、これほど見事に香りやハーブの効能を閉じ込めた石鹸のレシピを生み出せるわけがない。
こんな繊細なもの、エリオ・ローエン本人が考案したわけでもなさそうだ。
公爵家のルシアン本人は、相変わらず何を考えているか分からないけれど、オリヴィア様によれば最近はほとんど動いていないという。私にも直接関わってくる様子はないし、彼が裏で関与している線も消えている。
石鹸はある。運ぶ手立てもある。資金もある。売る場所もある。作り手もいる。護衛もいる。ローエン家も絡んでいる。
盤面は完璧に整っているのに、肝心のレシピを生み出した人物だけがどこにも存在しないのだ。
(……気持ち悪い)
イザベラは、苛立ちから自身の爪を噛んだ。
今の彼女の状況は、決して悪くない。いや、むしろ完璧だ。
公爵家の後継夫人としての席はほぼ確保し、オリヴィアを完全に掌握した。ルシアンの包囲網も完成している。あのお方からは新たな力を得て、王都での立場も回復した。
本来なら、ここで「勝ち逃げ」できるはずなのだ。
それなのに、得体の知れない焦燥感が彼女の首にまとわりついて離れない。
王都の淀みが急激に減ったこと。
自分の治療の優位性が薄れつつあること。
フェンリルが出現したこと。
そして、この石鹸の流行と、ローエン家の不自然な動き。
すべての点と点が、どこかで繋がっている気がする。
盤面は私が支配しているはずなのに、私の見えないところで、私に匹敵する、あるいは私を上回る『強者』が糸を引いている。
それが、イザベラにとっては耐え難いほどの屈辱だった。
「……どこにいるの? どこに隠れているというの?」
情報を整理する。
ローエン家が頻繁に出入りしている場所。フェンリルが現れた場所。大量の植物資源が手に入る場所。
それは間違いなく――『あの山』だ。
山。
フェンリル。
追放された女。
「……まさか」
ふと、イザベラの脳裏に、数ヶ月前に婚約破棄によりローエン家から家出した惨めな女の顔がよぎった。
セラ・ローエン。あの山へ向かったはずの、魔力なしの無能。
「そんなはずはないわ」
イザベラは不快そうに眉をひそめ、小さくかぶりを振った。
「だってあの女は……家にいた頃も、陰気な顔で庭の草いじりばかりしていただけの――」
そこまで思考を巡らせた時、ふと『植物』という言葉が一瞬だけ頭をかすめた。
しかし、その考えはすぐにイザベラの強烈なプライドによって塗り潰される。
「……ありえない」
イザベラはフッ、と嘲るように笑い飛ばした。
あの無能で惨めな女に、こんな高度な盤面を引けるわけがない。ましてや、これほどの石鹸を作り出す知識や発想などあるはずがないのだ。
「おそらく、あの山には私の知らない『凄腕の錬金術師』か『薬草学者』が隠れ住んでいるのね。エリオ・ローエンは、そいつを囲い込んで利用しているに過ぎない」
イザベラは、自らたどり着いた『真実』を、強烈な見下しと偏見によっていとも容易くゴミ箱へと捨て去った。
そして、ありもしない『未知の強者』へと鋭い敵意を向ける。
「私の知らない強者が、裏で私を出し抜こうとしている……。絶対に許さない。その正体を暴いて、私の足元に跪かせてやるわ」
暗い情念を燃やしながら、イザベラはテーブルの上の石鹸を強く握りしめた。
彼女は気づいていない。
自身の異常なまでのプライドと、セラへの過小評価こそが、自らを破滅へと導く『致命的な盲点』であることに。
――そして、自分が血眼になって探している『見えない強者』が、ずっとゴミのように見下していた相手であることに。




