第73話 有能すぎる裏方と、動き出す情報網2
王都の貴族街から少し外れた、しかし治安の良い大通りに面した一角。
そこにオープンしたばかりの美容石鹸専門店『ラ・ピュール』は、連日、信じられないほどの熱気と甘い香りに包まれていた。
「まあ、この石鹸……本当に素晴らしい香りね。お肌もすべすべになるし」
「ええ、それに見た目も宝石みたいで可愛らしいわ」
店内には、色とりどりのドレスに身を包んだ貴族の令嬢や夫人たちがひしめき合い、陳列された商品を熱心に品定めしている。
そんな華やかな空間の奥で、異彩を放つ巨体が一つ。
「――おっと」
一人の令嬢の従者が、うっかりと石鹸の入った木箱を落としかけた、その時だった。
風のような速度でぬっと腕が伸び、床に落ちる寸前でその木箱をふわりと受けとめる。
「……お気を付けて」
凄みのある低い声。
身長は二メートル近い。鍛え抜かれた巨体に、左頬を走る古傷。
初対面では誰もが目を逸らすほどの強面だが、その顔立ちそのものは驚くほど整っていた。――ゼインである。
彼は無表情のまま、落としかけた従者に木箱を差し出した。
「ひっ、あ、ありがとうございます……!」
「……(無言で頷き、元の位置に戻る)」
ただそれだけのやり取り。しかし、その無骨で隙のない身のこなしと、凄みのある横顔に――周囲の令嬢たちの目が、きらりとハート型に輝いた。
「(……見た!? 今の!)」
「(ええ、なんて素早い身のこなし……それにあの寡黙な態度、素敵……!)」
「(無愛想だけど、絶対に仕事ができるタイプですわ!)」
ひそひそと黄色い声援が飛び交う中、ゼイン本人は一切の興味を示すことなく、ただ黙々と布で棚を磨き続けている。
「……ふふふ。エリオ様の采配、見事の一言に尽きるわね」
その様子をカウンターの奥から眺めながら、店主であるリアナはホクホク顔で売り上げの計算をしていた。
ゼインが店に立ってからというもの、質の悪いチンピラや、製法を探ろうと嗅ぎ回っていた怪しい商人は、彼の鋭い眼光を一度浴びただけで「ヒッ」と悲鳴を上げて逃げ帰っていった。
まさに最強の用心棒である。
その上、一部の令嬢たちからは「ミステリアスな色男」として謎のアイドル的な人気まで獲得しつつあった。
(護衛と接客と裏方作業を一人でこなす超優秀な人材。おまけにルークお兄ちゃんが山から運んでくる荷解きまで無言でやってくれるんだから……本当に頭が下がるわ)
リアナは心の中でゼインに拝みつつ、にっこりと完璧な営業スマイルを浮かべて、常連の夫人たちが座る談話スペースへと歩み寄った。
「皆様、本日は特製のハーブティーをご用意いたしました。よろしければ、お召し上がりになりながらゆっくりご覧くださいませ」
そう言って、リアナが上品にティーカップを勧める。
この店に設けた小さな『談話スペース』。これこそが、リアナとエリオが仕掛けた最大の罠――『情報収集の網』であった。
上質な空間で、良い香りに包まれ、美味しいお茶を出されれば、貴族の女たちの口は自然と軽くなる。
「ありがとう、ルチアナさん。……そういえば、あなた方聞きました?」
一人の夫人が、声を潜めて切り出した。リアナは背を向けて商品を並べるふりをしながら、ピンと耳をそばだてる。
「例の、オリヴィア様のサロンの件よ」
「ええ、最近聖女イザベラ様がすっかり入り込んでいるというお話でしょう? 実はね……最近、あの公爵家からルシアン様の『縁談』の話題が一切出なくなっているのよ」
「まあ。ルシアン様といえば、前の婚約者と離縁された後、たしかクロード伯爵家のご令嬢にひそかにお声がかかっていたはずでは……?」
「ええ。でも、結局それも無かったことになったそうよ」
夫人たちは、扇の陰でヒソヒソと身を乗り出した。
「他にもいくつか打診があったらしいけれど、どれも立ち消えになったとか。……あそこまで徹底して他の縁談が消えるということは、つまり、もう『心に決めた方』がいるということではなくて?」
「間違いありませんわ。だからこそ、オリヴィア様はあそこまでイザベラ様を寵愛して、サロンでも片時もそばから離さないのでしょうね」
「……なるほど。ルシアン様の本当のお相手は、イザベラ様ということなのね!」
夫人たちの声に、確信めいた熱がこもる。
「きっとそうよ。今はあえて情報を外に出さず、時期が来たら教会も巻き込んで、大々的に『運命の結婚』として発表するおつもりなのね……!」
「なんてロマンチックなのかしら。お母様も、それを誇らしく思って皆様にイザベラ様を紹介しているのね」
(……なるほどね)
棚の陳列を直すふりをしながら、リアナは内心で戦慄した。
(……なるほどね)
棚の陳列を直すふりをしながら、リアナは内心で戦慄した。
ただの夫人の他愛ない噂話だと、笑い飛ばすことはできない。確証こそないが、あのイザベラのしたたかさを思えば、彼女たちの推測が『真実』である可能性は極めて高い。
公爵家から他の縁談がことごとく消えたのは、単なる偶然ではなく――イザベラに完全に心酔したオリヴィア様を裏で操り、意図的に全ての縁談を潰させているからではないか。
(あのお花畑みたいな顔をして……外堀の埋め方がえげつないわね。ルシアン様が誰と結婚しようが私の知ったことじゃないけど、あのエリオ様が警戒されてる『聖女様』がこのまま公爵家の権力まで手に入れようとしているなら、エリオ様にとって厄介な事態になるはずよ)
これは、エリオ様に報告する価値のある重要な情報だった。
「……リアナ」
不意に、背後から低い声で呼ばれた。
振り返ると、空になった木箱を片脇に抱えたゼインが立っている。
「店の裏手に、怪しい馬車が停まっている。……少し様子を見てこようか」
「え? あ、お願いゼインさん。無理はしないでね?」
「……ああ」
短く応え、ゼインは足音も立てずに裏口へと消えていった。
リアナは再び営業スマイルを顔に貼り付け、夫人たちの談話スペースへと振り返る。
王都の情報戦は、リアナの店を起点にして静かに、だが確実に回り始めていた。




