第69話 リアナ山へいく。
(約束の日。)
本来ならエリオ様も同行するはずだったが、朝一番で急遽騎士団から呼び出しが入り、俺とリアナの二人だけで向かうことになってしまった。
そんな兄のひそかな心細さなど知る由もなく、リアナは朝から鏡の前で奮闘していた。
奇跡の石鹸のおかげで、肌は内側から透明感で溢れている。化粧などほとんど必要なかったが、それでも今日という日のために、彼女は持っている中で一番上等なワンピースを引っ張り出した。
フリルがあしらわれた可愛らしいデザインで、足元も少しヒールのある余所行きの靴だ。
「よしっ」
完璧だ。相手はあの石鹸を作り出した凄腕の製作者であり、おまけに高貴な身分のお方だと聞いている。絶対に失礼があってはならない。
気合いを入れてリビングに向かうと、ちょうど兄のルークが迎えに来たところだった。
「お兄ちゃん、おはよう! どうかな、失礼じゃないよね?」
くるりと回って見せるリアナ。
しかし、それを見たルークは微かに眉間を寄せ、スッと遠い目をした。
「……あー、すまん。俺が言い忘れていた」
「え?」
「その格好は駄目だ。連れて行けない」
「……は?」
予想外の駄目出しに、リアナはぽかんと口を開けた。
「なんで!? 変じゃないでしょ!?」
「変ではないが、適していない。いつも着ているような、動きやすい服に着替えてこい。できればスカートよりズボンがいい」
「ズボン!?」
リアナは信じられないものを見る目で兄を睨んだ。
「お相手は、お貴族様なんだよね!? そんな普段着みたいな服で行ったら、それこそ不敬になるじゃない!」
「ならない。むしろそのヒールで行く方が確実に後悔する」
「だからなんで!」
必死に食い下がる妹に対し、ルークは一切の感情を排した、ひどく静かな声で告げた。
「今から行くところは、山だからだ」
「…………え?」
「山だ」
「や、ま……?」
貴族に会いに行くのに、山?
リアナの常識が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
◇
――それから数時間後。
「はぁっ、はぁっ……っ、ちょっと、お兄ちゃん……っ」
「足元に気をつけろ。木の根が出っ張っている」
「だからっ、なんで、お貴族様に会うのに、こんな山登りしてるのよぉ……っ!」
鬱蒼と茂る木々。険しい獣道。
ルークの言いつけ通り、動きやすいズボンと履き慣れた革靴に着替えてきたリアナだったが、それでも息も絶え絶えだった。
対するルークは、まるで近所の散歩でもしているかのように涼しい顔で山道を登っていく。
「もう少しで着く」
「もう、少しって……ここ、どこを見渡しても森じゃない……っ。お屋敷なんて、影も形も……」
ぜえぜえと肩で息をしながら、リアナが顔を上げた、その時だった。
ふわりと、視界が開けた。
木々を抜けた先に現れたのは、山の頂付近に切り拓かれた、見晴らしの良い開けた空間。
「……着いたぞ」
ルークの言葉に、リアナは息を呑んだ。
そこには豪奢なお屋敷などない。しかし、澄み切った空気と、眼下に広がる壮大な景色、そして――。
リアナの目の前に、彼女の常識をさらに破壊する、想像を絶する光景が広がっていた。
リアナの目の前に広がっていたのは、巨大な銀狼の姿だった。
(フェ、フェンリル……!?)
おとぎ話の中でしか聞いたことがない伝説の魔獣。それが今、優雅に寝そべり、ただの傍観者と決め込んだように涼しい顔でこちらを観察している。
最近、街にフェンリルが現れたという噂を耳にしたことがあった。まさかあれと同じ個体なのだろうか?
――いや、こんな規格外の存在がポンポンいてたまるか。絶対に同じだ!
「ひぃっ……!」
リアナは悲鳴を飲み込み、腰を抜かしそうになりながらルークの背中にガシッとすがりついた。
ルークはため息をつき、静かに妹を支える。
「あ、ルーク! いらっしゃい! あれっ、エリオは……?」
そこへ、家の中から軽快な足音と共に一人の少女が現れた。
エリオの姿がないことに首を傾げたセラだったが、ふと、ルークの背中に隠れるようにガシッとすがりついている見知らぬ少女に気づき、ぱちりと目を瞬かせた。
「その後ろの子……もしかして、前に言ってた妹さん?」
「あ、えと、あの……っ」
巨大なフェンリルと、底知れないお貴族様(とリアナは思い込んでいる)。
極度の緊張と恐怖でガチガチに固まり、言葉も出ないリアナの代わりに、ルークが深いため息をつきながら答えた。
「急遽、騎士団の呼び出しがありまして、エリオ様は来られなくなりました。それと……はい。俺の妹の、リアナです。勝手に連れてきて申し訳ありません。石鹸の件で、どうしても直接お礼が言いたいと聞かなくて」
「そっか、エリオお仕事なら仕方ないね。リアナちゃん、初めまして!」
セラは嬉しそうに微笑んだが、当のリアナはひぃひぃと引きつった顔で固まったままだ。
そんな彼女の様子を見て、セラは緊張をほぐすように、気遣うような優しい笑みを浮かべた。
「この間は、変な誤解させちゃって本当にごめんね? ここまで山を登ってくるのも、すごく疲れたでしょ。とりあえずお茶を淹れるから、座ってゆっくりしてね!」
そう言って、セラは手際よくお茶の準備を始める。
いつもの濾過した水。それを沸かして淹れた紅茶が、コトリとリアナの前に置かれた。
「どうぞ!」
「あ、ありがとうございます……」
リアナは震える手でカップを受け取り、恐る恐る一口飲む。
――その瞬間だった。
(……えっ?)
先程までの足の疲労が、嘘のようにスッと消え去った。
それどころか、極度の緊張でパニック寸前だった頭が信じられないほどクリアに冴え渡り、荒ぶっていた心臓の鼓動が驚くほど穏やかに落ち着いていく。
ただのお茶ではない。絶対に、あり得ない。
そこまで考えて、リアナの脳裏に、石鹸を渡してきた時の兄の顔がフラッシュバックした。
『作った人に迷惑が掛かる。だから絶対に口外しないと約束してくれ』
冗談の通じない、異様な緊迫感。
あの時は「たかが石鹸一つで大袈裟だ」と思っていた。けれど、違ったのだ。
(……お兄ちゃんの言ってた事って、こういう事だったんだ……)
石鹸も、このお茶も、次元が違う。
この目の前でニコニコと笑っている女性は、決して常識の枠に収めてはいけない規格外の存在なのだと、リアナはやっと、心の底から理解した。
「ふぁぁ……美味しい……」
あまりの衝撃と心地よさに、思わず声が漏れる。
同時に、すっかり完全復活を果たしたリアナは、先程までの怯えを完全に忘れ去り、尊敬と期待で目を輝かせて身を乗り出した。
「あの! 石鹸、本当にありがとうございました! すっごく良くて、ニキビも一回で消えたし、肌もつるつるで……っ!」
熱弁を振るうリアナに、セラは「おおー」と嬉しそうに軽く手を叩いた。
「良かった! スキンケアって大事だもんね。やっぱり成分にこだわった甲斐があったかな」
セラにとっては、前世の知識を活かして肌に良いものを作っただけの感覚だった。だから、そこまで歴史を覆すようなすごい物を作ったという自覚は全くない。
しかし、奇跡を直に体験し、このお茶の異常な回復力まで味わったリアナの熱量は凄まじかった。
「成分とか、そういう次元じゃありません! あんな素晴らしいものを作れるなんてっ!」
リアナは勢いよく立ち上がると、バンッとテーブルに両手をつき、セラに向かって深く頭を下げた。
「私を、お師匠様のお弟子にして下さい!!」
「……はい?」
セラがきょとんと目を丸くする。
その後ろで。
「……は?」
ルークは、今日一番の大きな声を出して驚愕に目を見開いていた。
新作を始めました!
『誰が鬼ですって? 〜王妃になったスパダリ国王、今日も愛妻を守るために悪役を演じます〜』
王様と王妃が入れ替わるお話です。
周囲は「鬼王妃だ!」「氷の国王だ!」と震え上がっているのに、本人たちはただのバカップルです(笑)
無自覚聖女とはかなり雰囲気が違うコメディ寄りの作品ですが、楽しんでいただけたら嬉しいです!




