第67話 誤解の原因
山頂から戻る頃には、すっかり日が昇っていた。
ノクスの背中から飛び降りたセラは、満足げに大きく伸びをする。
「最高だったー!」
「良かったな」
「だって雲海すごかったし、朝ごはん美味しかったし、ノクスふかふかだったし!」
「……ふっ。楽しんだのなら、それでいい」
ノクスは呆れたように鼻で笑い、機嫌良さそうにゆったりと尻尾を揺らした。
そんなやり取りをしながら家へ戻った瞬間だった。
「あ、セラ」
家の前で待っていたエリオがひらりと手を上げる。その隣には、いつものようにルークが立っていた。
「わ、二人とも来てたの!?」
「少し前からね」
「ごめんね! ちょっと山頂まで行ってて!」
お散歩にでも行っていたかのように当然のトーンで言うセラに、エリオは引きつった笑みを浮かべた。
いや、行くのはいい。問題は、その移動手段だ。
「……ノクスに、乗せてもらったの?」
恐る恐る尋ねたエリオの声に、ルークも一瞬にして背筋を強張らせ、二人は無言で視線を交わした。
無理もない。以前街へ向かう際、彼らも一度ノクスの背に乗せてもらったことはある。だが、あの時はまだ単なる「規格外の魔獣」だとばかり思っていたのだ。
しかし今は違う。先日ついに目の当たりにしたその正体は、人の姿すら取る、伝承に名を残す精霊王『ヴァルディオス』。そんな神話の存在を、セラは相変わらず自らの相棒の従魔のように扱っている。
「……うん! 山頂まで! 乗り心地抜群だったよ!」
「そ、そう、か……」
エリオはかろうじて平静を装った声を絞り出したが、喉の奥がカラカラに乾くのを感じていた。
隣のルークにいたっては、もはや言葉を失って直立不動の姿勢のままだ。
自分たちもあんな神格の背中に乗ってしまっていたという事後恐怖と、世界の理そのものを『乗り心地抜群』の一言で片付けるセラの無自覚さに、もはや眩暈すら覚える。
セラは二人の限界寸前の様子に気づく様子もなく、嬉しそうに続ける。
「雲海も見れたし、朝ごはんも食べてきたし! 最高だった!」
「…………それは、良かったですね」
ルークが魂の抜けたような声で、どうにかそれだけを言った。
エリオは、セラの背後にゆったりと鎮座している巨大なモフモフ――いや、偉大なる精霊王へと、恐る恐る視線を向ける。
ノクスは、何事もなかったかのように実に涼しい顔で座っていた。
しかし、その深い瞳は明確にエリオとルークを捉えている。
『余計な事を吹き込めば噛むぞ』
正体を知ったあの日、頭の奥へ直接響かされた理不尽極まりない念話の脅しが、今度は無言の凄まじい圧となってひしひしと二人の肌を刺してきた。
「俺の正体も、さっきまでご機嫌だったことも、何も言うな」という絶対的な神威。直前までセラに「ふかふか」されて楽しそうにしていた形跡が見え隠れしているだけに、その照れ隠しの脅迫はリアルに命の危険を感じる。
(頼むから俺たちを巻き込まないでくれ、セラ……!)
エリオは心の中で泣きそうになりながら、あえてわざとらしくコホンと咳払いをして話題を変えることにした。
「色々手伝って貰ったから報告しとこうと思ってな。後これ、借りてたやつ」
エリオがマジックバッグをセラに渡す。
セラは頷きながら、ふと思い出したようにルークへ視線を向けた。
「そうだ! 前に渡した石鹸どうだった?」
その瞬間。ルークの動きが、彫像のようにぴたりと止まった。
ほんの僅かに視線を泳がせ、スッと遠い目をした彼を見て、エリオは何となく「あ、これ絶対ろくでもない事が起きたな」と察した。
「……肌荒れが、見事に治りました。それにとても良い匂いで……」
「おお、良かった!」
「あと、妹に『ついに彼女ができたの!?』と勘違いされて、問い詰められて大変でした」
あまりにも真顔で、かつ抑揚のない声で言うものだから。
「ぶふっ」
エリオは耐え切れず吹き出した。
当のルークは一切笑わず、ひたすらに真顔のままだった。
「いや待て、なんでそうなる?」
「石鹸からふわりと香る甘い匂いと、みるみる肌が綺麗になっていくのを見て、『恋をして身だしなみに気を使い始めたに違いない』と思い込んだそうです」
「ははははは!」
エリオは腹を抱えて、ついに堪えきれず声を上げて笑い出す。
「お前、それちゃんと説明したのか?」
「とりあえず、貰った石鹸を使っている事だけは言いました。……ですが」
「信じた?」
「出回っている石鹸には匂いがついていないのが常識なので、『そんな言い訳が通用すると思ってるの!』と全く信じて貰えず……」
一瞬、気まずそうな間が空く。
ルークの不器用すぎる弁明風景が目に浮かび、エリオは再び肩を震わせた。
「ぶふっ、お前ほんっと説明下手すぎだろ」
「……エリオ様にだけは言われたくないですよ」
少し拗ねたように唇を尖らせて言い返し、ルークはふいっと視線を逸らした。
「妹さんおいくつなの?」
「ああ、二つ下です」
「私の一つ下かぁ」
セラは少し考えるように頷いた後、真剣な顔でびしっと人差し指を立てた。
「でも、勘違いさせたままは良くないね」
「いや、別に実害は」
「だめだよ!」
何故かセラは妙に熱が入っていた。
「勘違いされたままは良くない!」
――嫌な予感がする。
エリオとルークは同時にそう思い、スッと顔を見合わせた。
そして予感通り、セラはごそごそとマジックバッグを漁り始める。
「これ、勘違いさせちゃったお詫びに渡してね」
「待って」
エリオが即座に止めに入った。
「それは色々まずいだろ」
「なんで?」
「出回ってない香り付き石鹸を追加で持って帰るのは……」
セラはきょとんと小首を傾げた。
「なんで?」
「なんでって……」
エリオは思わず天を仰いで額を押さえる。
ルークは再び、スッと遠い目をした。
「『兄ちゃん、彼女から贈り物もらってるんだ……!』ってなりません?」
それに、危惧すべきは勘違いだけではない。
もしリアナの身体に少しでも不調を感じているところがあれば、あの石鹸はそれらすべてを完璧に治してしまうだろう。いくらなんでも、さすがのリアナもその規格外すぎる『ヤバさ』に気づいてしまうはずだ。
そんなルークの切実な思いをよそに。
「あーー……」
セラはようやく少し納得したように頷いた。
だが次の瞬間、ポンと手を打つ。
「じゃあ手紙つけるよ!」
「何故そうなる?」
エリオが即座に突っ込む。
「“誤解させてごめんなさい。石鹸を渡したのは私です”って書けば大丈夫でしょ?」
「絶対、妹面白がるだろう、それ」
「ああ……」
リアナが目を輝かせながら手紙を読む姿が容易に想像できてしまい、ルークは深く息を吐き出した。
「えー、じゃあどうしたらいいの?」
「何もしないのが一番だ」
エリオは即答した。
「でも勘違いされたままって嫌じゃない?」
「ルークはもう諦めてるぞ」
「諦めています」
一切の感情を捨てた声でルークが同意する。
「諦めるの早くない!?」
セラは全く納得いかない様子だった。
しばらく悩むように唸った後、えいっと布袋に入った石鹸をルークの胸元へ押し付けた。
「……じゃあせめて、お詫びに妹さん用に石鹸だけ渡して」
「結局渡すんですね」
「だって気になるもん!」
びしっと言い切るセラの石鹸から、ふわりと甘い花の香りが漂う。
エリオは完全に頭を抱えた。
「……もう好きにしろ」
「ああ」
ルークも抗うのを諦め、おとなしく石鹸を受け取る。
セラは満足そうにうんうんと頷いた。
「ちゃんと説明してね!」
「善処します」
一切善処できそうにない顔のルークと、無邪気なセラ。
そのやり取りを見ながら、エリオは深い深いため息を吐いた。
「……ルーク」
「分かっています」
ルークは手元の石鹸を見下ろしながら、小さく頷く。
「極秘だぞ」
「ああ」
――リアナの誤解が、更に悪化する未来しか見えなかった。




