第64話 イザベラの帰還
イザベラは、その家へ数日滞在することになった。
街道で倒れていた彼女を見つけたのは、薬草を採りに出ていた夫婦だったらしい。
熱も怪我もないが、呼びかけても目を覚まさない。医者も呼ばれたが「原因が分からない」と首を傾げるばかりだったという。
それでも二人は、イザベラを見捨てなかった。
「放っておけなかったんですよ」
そう照れくさそうに笑う夫婦を見て、イザベラは小さく目を伏せた。
三日目を過ぎた頃には、ようやく歩ける程度まで回復していた。
だが身体は重く、指先の感覚は曖昧で、温かい茶を飲んでも熱を感じにくかった。
それでも、いつまでもここへ留まるわけにはいかない。王都へ、教会へ戻らなければ。カーライル公爵家も、今どうなっているのか分からない。その事実が、じわじわと胸を締めつけていた。
「本当にありがとうございました」
イザベラは深く頭を下げる。
夫婦は慌てたように首を振った。
「そんな! これ、道中召し上がってください。また倒れないように、甘いものを少し」
差し出された小さな包みを、イザベラはしばらく見つめた。
受け取り方が、分からなかった。
この人たちは、自分が何者かも知らない。
聖女でも、カーライル公爵家の関係者でも、何でもない。
ただ街道で倒れていた女を、それだけの理由で助けて、世話をして、今また気遣っている。
どうしてそんなことができるのだろう。
何の見返りもないのに。
「……いただきます」
掠れそうな声でそう言って、包みを胸に抱えた。
夫婦は嬉しそうに笑った。
その笑顔を、まともに見られなかった。
静かに馬車へ乗り込みながら、胸の奥が妙にざわついた。
馬車の手配までしてもらって、礼を言って、それで終わりのはずなのに。
なのにどうしてか、踵が重かった。
窓の外を流れていく景色を見つめながら、静かに唇を噛む。
教会はどうなっているのか。自分が突然姿を消したことを、どう受け止められているのか。カーライル公爵家は。ルシアンは。最悪の想像ばかりが頭を過る。
もしこの数日で立場を失っていたら、偽物だと疑われ始めていたらと考えると、知らず知らずのうちに指先へ力が入っていた。
黒い靄が、ゆらりと揺れる。
『思い詰めないで』
甘い声が、頭の奥で囁いた。
『あなたは特別よ。上手く使いなさい』
その声に、張り詰めていた呼吸がわずかに緩む。
あのお方の声が響くことは、そう頻繁にあることではない。なのにここ数日、こんなにも近くにいる。
ふと、指先へ意識を向ける。
数日間、まるで守るように身体へ張り付いていた黒い靄が、いつの間にか内側へ溶け込んでいた。
以前と同じ力が、戻ってきている。
いや——少し、違う。
前より深いところに根を張っているような、そんな感覚だった。
大丈夫、自分は選ばれた側だ。そう思い込むように、イザベラは静かに目を閉じた。
やがて馬車が王都へ到着し、扉を開けて地面へ降り立った瞬間だった。
一人の女性が驚いたように息を呑み、目を見開いた。
「聖女様……!」
その声をきっかけに、周囲の視線が一斉に集まる。
「イザベラ様だ!」
「よかった、ご無事だったんですね!」
「聖女様がいなくなられた途端、神獣様が現れたんですよ! きっとお案じになって!」
「そのおかげか、流行り病まで収まって……ありがとうございます、聖女様!」
神獣?
イザベラは眉を寄せる。
おとぎ話の中にしかいないと思っていた存在が、本当にいたのか。
だが、それ以上に引っかかることがあった。
神獣が、わざわざ人の世へ関与してくる理由が分からない。
伝承では、神獣は人の世に容易く姿を現さないはずだ。
それが何故、よりによってこの時に。
感謝と安堵の声が次々に飛ぶ中、イザベラはわずかに目を見開いた。
脳裏に、夢で見たあの光景が蘇る。
浄化。頭を裂くような、あの痛み。
『直ぐに離れるのよ』と、頭の奥で響いた声。
だから逃がしたのかと、無意識に胸元を押さえる。
神獣と、あの白銀の光に関係があるのかどうか、イザベラには分からなかった。
幸い、自分の立場は崩れていない。
それどころか、人々の視線は以前より熱を帯びていた。
神獣の出現。流行り病の収束。そして、その直前に姿を消した聖女。人々は勝手に意味を結びつけているのだ。
イザベラは静かに目を細める。悪くない。むしろ都合がいい。
けれど、夢で見たあの白銀の光だけは別だった。
黒い靄が、今も微かに怯えるように揺れている。
――あのお方なら、何か知っているのかもしれない。
そう思うのに、呼びかけても返事はない。あの声は、いつだって一方的だった。
イザベラはゆっくりと空を見上げた。
「……何としてでも、調べてやるわ」
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