第63話 御告げ
その夢は、いつもよりずっと静かだった。
暗くて底の見えない水の中。
冷たい闇の中で、イザベラはゆっくりと沈んでいく。
苦しくはない。
むしろ心地よかった。
何も感じなくて済む、この場所は嫌いではない。
『直ぐに離れるのよ』
不意に、"あのお方"の声が響いた。
いつもなら甘く響くはずのそれに、今はひどく焦ったような切迫感が滲んでいる。
どこか余裕のない、強い警告。
絶対に逆らうことの許されない響きだった。
「……何から?」
問いかけた声は、水の中へ溶けるように消える。
すると暗い水面へ、白銀の光が走った瞬間。
ずきり、と頭の奥が痛む。
光は広がり続ける。
暗闇を焼くように。
浄化。
その言葉が、なぜか脳裏へ浮かんだ。
『あの光は、あなたを傷つけるわ』
黒い靄が、不快感を露わにするように鋭く波打った。
自分の持ち物を奪われまいとするような、強烈で冷たい怒りが渦巻いている。
ひどく排他的で、恐ろしい気配。
けれどその怒りの矛先が、自分ではなく『外の世界』に向けられていることだけは分かった。
『今はまだ、見つかってはいけないの』
まるで大切な秘密を打ち明けるような声。
イザベラは無意識に胸元を押さえる。
どうしてだろう。
怖いはずなのに、安心してしまう。
幼い頃から、誰かに守られた記憶などなかった。
選ばれなければ捨てられる。
それだけを知って生きてきた。
だから、この声が向ける言葉は、たとえ裏に何があるのか分からなくても、どこか甘く、胸の奥へ染み込んでくる。
『急いで』
その瞬間。
イザベラは勢いよく目を覚ました。
「っ……!」
荒い呼吸。
額にはじっとりと汗が浮かんでいる。
胸元を押さえながら、ぼんやりと周囲を見回した。
教会の私室。
見慣れた天井。
けれど妙だった。
身の回りの黒い靄が、いつもより濃い。
指先へまとわりつくそれが、落ち着きなく揺れている。
まるで怯えているようだった。
「……浄化?」
夢を思い出し小さく呟いた瞬間だった。
頭の奥へ、鋭い痛みが走る。
「ぁ……っ!」
視界がぐらりと揺れた。
まるで身体の奥を削られるような感覚。
息が苦しい。
黒い靄がざわめき、怯えるように揺れていた。
今まで感じたことのない痛みだった。
じわじわと広がるのではなく、鋭く、深く、まるで何かが内側から引き剥がされるような。
『ああ、私の可愛い子』
また声がする。
ひどく優しい声だった。
『大丈夫』
『わたくしが守ってあげる』
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
守る。
そんな言葉を向けられたことなど、今までほとんどなかった。
おかしいと思う自分もいる。
この声が何者なのか、本当のことを何も知らない。
なのに。
縋りたくなってしまう。
『だから、離れるのよ』
イザベラは唇を噛む。
本能で理解した。
このままここへ留まれば危険なのだと。
理由は分からない。
けれど身体が、逃げろと訴えている。
イザベラはふらつく足で立ち上がった。
夜明け前。
誰にも気づかれない時間だった。
最低限の荷物だけを掴み、教会の裏口から外へ出る。
冷たい夜風が頬を撫でた。
馬車は使わない。
目立つわけにはいかなかった。
人気のない街道を、イザベラは一人で歩き続ける。
遠ざかるほど、頭痛は少しずつ和らいでいった。
だが、完全には消えない。
黒い靄は不安定に揺れ続け、指先の感覚もほとんどなかった。
途中から、寒さすら分からなくなっていた。
足だけが動いていた。
考える余裕もなかった。
カーライル公爵家への道も。
積み上げてきた立場も。
失いたくない。
絶対に。
それでも今は、立ち止まることの方が恐ろしかった。
止まれば何かに追いつかれる気がした。
どれだけ歩いただろう。
隣町が見え始めた頃には、空が白み始めていた。
その時。
ふいに視界が明滅する。
「……え……?」
足の力が抜けた。
石畳へ崩れ落ちる。
遠くで誰かが声を上げた気がした。
けれど、もう聞こえない。
最後に見えたのは。
自分の指先から溢れる黒い靄が、まるで何かを庇うように身体へ巻き付いていく光景だった。
◇
次に目を覚ました時、見知らぬ天井があった。
「……ここ、は……」
掠れた声が漏れる。
身体が重い。
石のように重くて、指一本動かすのにも時間がかかった。
ぼんやりとした頭で周囲を見ると、小さな家の一室のようだった。
「あっ……!」
椅子でうたた寝していた女性が、勢いよく立ち上がる。
「よかった……! 三日も目を覚まされなかったんですよ!」
「……三日?」
喉がうまく動かない。
女性は安堵したように笑った。
「街道で倒れていたんです。熱も怪我もないのに、ずっと眠ったままで……」
三日。
その言葉に、イザベラは小さく息を呑んだ。
三日も。
そんな長い間、自分は眠っていたのか。
教会はどうなったのだろう。
カーライル公爵家は。
自分が突然姿を消したことを、どう受け止めているのか。
積み上げてきたものが崩れていく光景が脳裏を過り、胸の奥がざわつく。
無意識に、自分の手を見る。
黒い靄は、まだそこにあった。
けれど以前より薄い。
まるで消耗したかのように、頼りなく揺れている。
それでも。
指先へ絡みつくそれを見た瞬間、張り詰めていた呼吸がわずかに緩んだ。
……消えていない。
なら、まだ大丈夫。
その事実だけで、胸の奥に微かな安堵が広がる。
その時。
窓から差し込む朝日を見た瞬間、頭の奥がずきりと痛んだ。
「っ……」
思わず顔をしかめる。
女性は心配そうに身を乗り出した。
「大丈夫ですか?」
「……ええ」
そう答えながら、イザベラは静かに唇を噛む。
分かってしまった。
あの光は、自分にとって危険なのだ。
そして、“あのお方”はそれを知っていた。
知っていて、逃がしてくれた。
『ほら、大丈夫だったでしょう?』
頭の奥で、甘く囁く声がする。
ぞくり、と背筋が震えた。
なのに不思議と、嫌ではなかった。
守られた。
そう感じてしまった自分がいた。
怖いはずなのに。
あの声を、もう一度聞きたいと思ってしまうほどに。




