第61話 ヴァルディオス
王都へ向かう山道を、巨大な銀狼が駆けていた。
陽光を反射する毛並みは、白銀だけでは言い表せない淡い月光を閉じ込めたような色合いをしている。
深い蒼を宿した双眸。
一歩踏み出す度、周囲の風が震え、森の精霊たちが道を開けるように揺れていく。
その背へ乗せられたエリオは、吹き抜ける風に髪を押さえながら乾いた声を漏らした。
「……なあ。やっぱり止めない?」
「何度もうるさいぞ」
巨大なフェンリル――ノクスは、呆れたように鼻を鳴らす。
「だって普通行かないでしょう、神獣が教会に」
「セラへ向かなければ問題ない」
どうやら本気でそう思っているらしい。
隣では、先程まで頼もしい顔をしていたルークだったが今は無言でノクスの毛並みに必死で掴まっている。
「ルーク?」
「……少々、情報量が多すぎまして」
「わかるよ」
エリオは遠い目をする。
ノクスが神獣なのは理解している。
だが、実際にその背へ乗り、人では到底辿り着けない速度で山を駆ける体験は、想像を遥かに超えている。
風を纏うノクスは、もはや“走っている”というより、山そのものを滑るようだった。
「掴まっていろ」
「え?」
次の瞬間。
景色が、弾け飛んだ。
「うわっ!?」
轟、と遅れて風が追いつく。
木々が線のように流れ、地面が見えなくなる。
跳んだ。
そう理解した時には、ノクスは既に崖を越えていた。
「うわぁぁぁっ!?」
エリオの悲鳴が山へ響く。
数秒遅れて。
「…………」
「ルーク?」
返事がない。
振り向けば、ルークはノクスの毛並みにしがみついたまま、静かに意識を手放していた。
「気絶してる!?」
「軟弱だな」
「ノクスの基準で言わないで!?」
◇
王都正門前。
「……なんだ、あれ」
最初に異変へ気付いた門番が、呆然と呟いた。
遠くから近づいてくる巨大な影。
銀。
いや、狼だ。
「ま、待て……あれは……」
巨大なフェンリルが、真正面から王都へ向かって来る。
門番たちが青ざめた。
「魔物襲撃――」
「待ってください!!」
慌ててエリオがノクスの背から身を乗り出した。
「攻撃しないでください! 本当に!!」
「エ、エリオ様!?」
「説明は後です! とりあえず道を開けてください!」
門番たちは完全に混乱していた。
だがエリオの必死な様子と、フェンリルが全く敵意を見せていないこともあり、辛うじて武器を抜かずに済んでいる。
ノクスは周囲の騒ぎなど気にも留めず、悠然と王都へ足を踏み入れた。
その瞬間。
ざわり、と街中の空気が揺れる。
「なにあれ……」
「フェンリル……?」
「え、嘘だろ……?」
人々が道端で立ち止まり、次々と視線を向けてくる。
だがノクスは気にしない。
エリオだけが死んだ目をしていた。
「もう、帰りたい……」
◇
教会本部へ到着した時には、既に軽い騒ぎになっていた。
「だ、大司教へ報告を――!」
「騎士の派遣を!」
「いや刺激するな!!」
混乱する神官たちを横目に、ノクスは静かに教会入口前で立ち止まる。
そして、蒼い瞳を細めた。
「ここか」
「はい……出来れば穏便に……」
エリオが言い終える前に。
ノクスはそのまま堂々と中へ入っていった。
「待っ――!」
止める暇もない。
神官たちが左右へ逃げるように道を開けていく。
そのまま案内された大広間では、大司教を始めとした上層神官たちが緊張した面持ちで待機していた。
そして、その場にはもう一人。
壁際へ静かに控えていたルシアンが、エリオへ僅かに視線を向ける。
――本当に連れて来たのか。
そんな呆れと驚きが入り混じった目だった。
エリオは気まずそうに目を逸らす。
真正面から巨大な神獣を見た瞬間。
全員の顔色が変わる。
「っ……」
空気が重い。
ただ存在しているだけで、本能が理解する。
格が違うのだと。
人間では到底届かない“上位存在”。
大司教が、震える声で口を開いた。
「……なんの用だ、一体」
その瞬間。
銀狼の身体が、ふわりと光へ溶けた。
舞い上がる銀粒子。
風。
そして現れたのは、一人の男だった。
長い銀髪は陽光を受けて淡く青を帯び、深い蒼の瞳が静かに周囲を見渡している。
整った容貌。
だが何より目を引くのは、人の姿を取ってなお隠し切れない圧倒的な“格”。
室内が静まり返った。
「……我はヴァルディオス」
低く落ち着いた声が響く。
その名を聞いた瞬間。
ルシアンの瞳が僅かに見開かれる。
古い文献でしか見たことのない名。
守護を司ると云われる精霊王の一人。
初代聖女の記録にも記されていた、伝承存在。
まさか実在していたとは。
「ヴァルディオス……?」
大司教の掠れた声が漏れる。
ノクスは周囲の動揺など気にも留めず、静かに続けた。
「此度の地下浄化路の件、我が関与した。山に関わる事であったのでな」
「ま、まさか……」
大司教の唇が震える。
「守護を司る精霊王、ヴァルディオス様が……?」
「そう呼ぶ者もいたな」
軽く肯定された瞬間。
室内の空気が凍り付いた。
「せ、精霊王……」
「本当に存在して……」
「あり得ない……」
神官たちが次々青ざめていく。
中にはその場へ膝をつく者まで現れ始めた。
だが当の本人は、心底どうでも良さそうだった。
「人間共の事情には興味はない」
ノクスの蒼い瞳が、静かに大司教を見下ろす。
「だが、山を騒がしくされるのは好かぬ」
穏やかな声音。
なのに誰一人逆らえる気がしない。
「故に、今回の事は騒ぎ立てるでない。内密に頼むぞ」
大司教は弾かれたように頭を下げた。
「は、はい……!」
周囲の神官たちも慌てて続く。
ノクスは満足したように小さく目を細めた。
「では、用件は終わりだ」
次の瞬間。
ふわり、と風が吹き抜ける。
銀色の粒子が舞い――。
「なっ……!?」
気付いた時には、そこにノクスの姿は無かった。
静まり返る室内。
長い沈黙の後。
『……セラには、まだこの姿と名の事は話すな』
不意に、頭の奥へ低い声が響いた。
エリオが思わず目を見開く。
(念話まで出来るのかよ……)
『余計な事を吹き込めば噛むぞ』
(はいはい分かりましたよ……!)
理不尽極まりない脅しに、エリオは内心でだけ肩を落とした。
「…………エリオ殿」
大司教が、引き攣った顔で呟く。
部屋の端で気配を消していたエリオは、そっと視線を逸らした。
「……はい」
「貴方、何を知っているのです?」
「さぁ……何のことでしょう」
乾いた笑みしか出なかった。
その空気を断ち切るように、静かな声が響く。
「皆様、少し落ち着いて下さい」
壁際で一連の様子を見届けていたルシアンが、ゆっくり前へ出た。
その表情は普段通り穏やかだったが、その瞳には僅かな緊張が残っている。
「ル、ルシアン様……!」
大司教が縋るような視線を向けた。
「今のは……本当に……?」
「ええ」
ルシアンは静かに頷く。
「ヴァルディオス様。古き守護の精霊王です」
室内へ再び緊張が走った。
「な、何故そのような存在が……」
「私が、エリオ殿へ協力を依頼しました」
穏やかな声音だった。
だが、その一言だけで場の空気が僅かに落ち着く。
エリオが思わず目を見開いた。
「ルシアン様が……?」
「地下浄化路の件です。現状の教会では対応が難しかったので、古い文献を辿っていたのですよ」
事実は語っている。
だが、最も触れてはいけない部分だけは、巧妙に外していた。
「その過程で、ヴァルディオス様との接触に成功しました」
ルシアンはさらりと言ってのけた。
大司教たちは完全に飲まれている。
そもそも、“神獣が実在した”という事実だけで処理能力を超えていた。
「今回の件は、ヴァルディオス様のご意向通り、極秘扱いとするべきでしょう」
ルシアンの声音は穏やかだった。
だが、その瞳は真っ直ぐ大司教を見据えている。
「山への調査も中止するべきです。あの方は、騒がれることを望んでおられない」
「……っ」
大司教が息を呑む。
先程まで室内を満たしていた、圧倒的な存在感。
あれを思い出してしまえば、否と言える者など誰もいなかった。




