第60話 ノクスの決意
地下浄化路へ流された“水”は、想像以上の効果を発揮してしまった。
王都へ漂っていた淀みは薄れ、悪化していた患者たちの容態も、少しずつ落ち着きを見せ始めている。
だが、その変化はあまりにも劇的すぎた。
「地下結界が回復しているらしい」
「通常の聖水ではあり得ん」
「……誰が浄化した?」
教会内部では、そんな話が絶え間なく飛び交っていた。
もちろん表向きには、イザベラの功績として扱われている。
異変が起きてからイザベラ本人が公の場へ姿を見せていないことも、噂に拍車をかけていた。
「聖女様は力を使い果たされたのでは……」
「地下結界を一人で立て直したと聞いた」
「お身体を休めておられるらしい」
そんな憶測が、半ば好意的に広がっていく。
そして同時に、街では別の噂も広がり始めていた。
「最近、山側の空気が綺麗になってるらしいぞ」
「黒花の症状が軽くなったって話も聞いた」
「あの辺りって、“神隠しの聖女様”の噂があった山だろ?」
最初は与太話だった。
だが地下浄化路の異変以降、それを笑い飛ばせなくなり始めている。
そしてついに。
「山の調査を行います」
教会上層部が、正式に調査を決定した。
◇
その報を、エリオは受け取った直後だった。三日後に調査が行われるらしい。
「……最悪だ」
研究棟へ戻ったエリオは、机へ突っ伏した。
脳裏に浮かぶのは、先日のルシアンの表情だった。
『だからこそ、周囲が支えないといけないんだろうね』
困ったように笑っていたのに、どこか泣きそうにも見えた。
――ああ、この人も気づいてしまったんだ。
セラの危うさに。
その横で、ルークが静かに資料を閉じる。
「予想はしてたじゃないですか」
「覚悟はしてたけど、早すぎる……」
地下浄化路の回復。
黒花患者の沈静化。
結界術式の再起動。
あれだけ派手に結果が出れば、誰かが原因を探り始めるのは当然だった。
「イザベラ派と、“神隠しの聖女”派で意見が割れ始めていますよ」
「面倒だなぁ……」
エリオは心底嫌そうな顔をした。
イザベラを支持する者たちは、全てを“現聖女の奇跡”として押し通そうとしている。
だが一方で、地下浄化路へ近づいた神官たちは気付いてしまった。
あれは今までの聖水とは別物だと。
「問題は、山の調査ですね」
「だよな……」
エリオは頭を抱えた。
もし教会の人間が山へ入れば、いずれ辿り着く。
異常に澄んだ空気。
黒花への効果。
そして、セラへ。
「……行くか」
諦めたように立ち上がったエリオへ、ルークが視線を向ける。
「山へ?」
「ああ。ノクスに相談する」
◇
「少しの間でも、セラと山から離れて欲しいんだ」
ロッジ裏の岩場で、エリオは真剣な顔でそう切り出した。
ノクスは寝転がったまま、面倒そうに片目を開ける。
「無理だな」
「即答……」
「我は長期間この山を離れられぬ」
その声音は静かだった。
「こちらにも事情があるのだ」
エリオの表情が僅かに引き締まる。
以前から察してはいた。
ノクスがこの山へ留まり続けているのは、単なる気まぐれではないのだと。
「……やっぱり、この山にいるのは理由があるんだな」
「ああ、人間共が騒ぎ始めている時点で良い状況ではないのでな」
ノクスはゆっくり身を起こした。
「それにセラも、ここを離れようとはせんであろうな」
「まぁ……そうだろうな」
今もロッジ前では、当の本人が鼻歌交じりに薬草を干している。
自分が騒動の中心になりかけているなど、微塵も気付いていない。
「……なら、どうすればいい」
エリオは低く問う。
「このままだと教会の連中が山へ来てしまう」
ふむ……とノクスは考える。
「人間を納得させれば良いのであろう?」
ノクスは当然のように言った。
エリオが目を瞬かせる。
「方法があるのか!?」
「娘へ興味が向かなければ良いだけだ」
ノクスは静かに立ち上がった。
「ならば、我が出向いてやろう」
一瞬、空気が止まる。
「……?」
エリオの思考が完全に停止した。
隣でルークも固まっている。
「我が“聖水の出所”だと言えば済む話だ」
「いや済まないよ!?」
エリオは勢いよく立ち上がった。
「本気!?」
「事実、我が風で撒いた」
「そこじゃない」
ルークが即座に突っ込む。
ノクスは小さく鼻を鳴らした。
「我が出向けば問題ない」
「問題しかないよ!」
神獣が教会へ現れるなど、国家規模の大騒ぎだ。
だがノクスは意に介した様子もない。
「騒がしいのは好かぬ。さっさと終わらせる」
「いや絶対終わらないって……」
エリオは頭を抱えた。
だが同時に理解してしまう。
ノクスは本気だ。
世界がどうなろうと知ったことではない。
ただ、セラへ面倒事が向くのを嫌がっている。
「……本当に行く気?」
「ああ」
ノクスは静かに目を細めた。
「それに、今の世の人間共の“教会”というものも少し気になる」
「見物感覚で行かないで……」
エリオは遠い目をした。
間違いなく、とんでもないことになる。
「では、ゆくぞ」
「……は? ゆくぞって、いつ?」
「今に決まっておろう」
当たり前のように言い放つと、ノクスは背を向けた。
「待って待って待って! 今すぐ!? 準備とか心構えとか、教会への通達とか!」
エリオが慌てて追いすがるが、神獣の歩みは止まらない。
「我が直々に出向いてやるのだ。何故こちらが気を使ってやらねばならん。向こうが我に合わせるのが道理であろう」
「理不尽の極み!」
「エリオ様! 覚悟を決めて向かいましょう!」
ルークはいつになく頼もしい顔でエリオの肩に上着を掛け、その背中を叩いた。
「うわあああああ待ってくれ、せめてもう少し流れとか相談してから……」
悲鳴のようなエリオの声を置き去りに、ノクスは堂々たる足取りで外へと踏み出した。




