第57話 出来ることをしよう
その朝、セラは何となく落ち着かなかった。
エリオから聞いた皮膚病の話が、頭から離れない。
それに山の空気もいつもの心地よさがなく、どこか重く沈んでいる。
はっきりとした理由は分からないが、ただ、なんとなくいつもと違う気がした。
なんだろうと、ロッジの前に立ち周囲を見渡す。
ふと、足元の草に目が留まった。いつもなら生き生きとしているはずの葉が、わずかに萎れ、色褪せている気がする。
元気がないなと見つめていると、ふと、記憶が蘇る。
以前、お風呂の残り湯をその辺に適当に捨てたら、花が咲き乱れていたことがあった。
なら、お風呂のお湯を撒けば元気になるかもしれない。
思い立ったら即行動だ。
王都の病のことは今はどうにもできないが、目の前の草花を元気にすることならできるはず。
だが、セラの思考はそこからさらに実用的な方向へとシフトしていく。
お湯を大量に沸かすということは、火を長く焚くということだ。その熱を使わないのはもったいない。
今、エリオやルークは王都で石鹸を広めるために頑張っているはずだ。
なら、自分もこっちで出来ることをやっておこう。
火の熱を利用して、隣で石鹸用のオイルをたくさん作る。燃えカスとして出た炭や灰は、次の石鹸の材料にもなる。ついでにエリオたちがいつ来てもいいように、渡す用の『完璧に濾過したお水』も作り置きしておこう。
頭の中で、無駄のないスケジュールが組み上がる。我ながら完璧なプランだと、セラは一人で満足げに頷いた。
さっそく袖を捲り上げ、準備に取り掛かる。
◇
近場の岩場にいるノクスもまた、不穏な空気を感じていた。
やはり、漏れ出ているな。
視線の先にあるのは、山の麓。そしてさらにその向こうに広がる人間の街だ。
山の奥深くに封印されているはずの『あやつ』の気配が増している。麓で漂う瘴気も無視できない。
だが、自力で封印を破れるほど力は戻っていないはずだ。ならば答えは一つしかない。
また、どうやって人間を唆したのか。
あやつは昔からそうだった。
欲に駆られた人間へ甘い言葉を囁き、手駒として利用する。我は、それを何度も見てきた。
今回も間違いなく、どこかの愚かな人間をそそのかし、偽りの力を与える見返りに瘴気を振り撒かせているに違いない。
それを見張るのが、我の役目だ。
いつ来るか分からぬ『その時』に備え、気を張り続ける。
その積み重ねが、僅かに心を擦り減らしていた。
そうして思案しながら目を伏せていた時だった。
「はい薪追加。こっちの鍋は火から下ろして、と……」
下から聞こえた声に、ノクスは片目を開けた。
セラが、ロッジの前でいくつもの作業を同時進行でこなしている。
風呂に湯を用意しながら、隣の鍋で石鹸の材料を煮込み、濾過器から水を汲み、さらにはかまどの灰を丁寧に回収している。セラは一人で休む間もなく動き回っていた。
相変わらず、せわしない娘だ。
ノクスは呆れたように小さく息を吐いた。
精霊たちも得体の知れない淀みに怯えて身を潜めているというのに、あの娘だけはいつも通りマイペースだ。
「よし、お湯沸いた! さて、撒くよお!」
セラが大きな器に湯を移し、そこからコップで掬っては、周辺へとバシャバシャと撒き始めた。
(……あんな水撒きで、どうにかなる気配ではないが)
山全体から麓にまで広がりつつある不穏な気配に対し、コップ一杯の湯など焼け石に水だ。
そう思って眺めていると、案の定、娘の手がぴたりと止まった。
「……これ、日が暮れるどころか年が明けるな」
娘が器を抱えたまま、山を見上げて途方に暮れたように呟く。
(……全く、仕方ないな)
ノクスは静かにため息をつくと、ふらりと岩場から飛び降りた。
山の為にどうにかしようと行動する娘が困っているのを見ているだけというのは、なんだか寝覚めが悪かった。
「あ、ノクス。ごめ――」
「退け。お前がそんなコップでちまちまやっていたらキリがないだろう」
ノクスは穏やかな声で告げると、湯を溜めている浴槽へ視線を向けた。
静かに魔力を練り上げる。
たっぷりと沸かされた風呂の湯が丸ごとふわりと宙に浮き上がり、ノクスの風に乗って、細かい霧となって山全体へと飛散していった。
「うわぁ……! すごい! 一気に撒けた!」
娘が目を輝かせて歓声を上げる。
ノクスは手早く水撒きを終わらせると、再び岩場に戻ろうとした。
だが、その瞬間。
「……なっ」
ノクスは思わず目を見開いた。
霧となった湯が山肌に触れた途端。
へばりついていた淀みが、まるで熱湯をかけられた泥のように、ジュワリと音を立てて消滅したのだ。
ふわりと、清涼な空気が山を包む。
湯が撒き散らされた範囲の淀みは一つ残らず、一瞬にして弾け飛び、浄化されてしまった。
「おー! 一気に空気が変わったんじゃない? ノクス、手伝ってくれてありがとう!」
足元の草を見て、娘が嬉しそうに笑っている。
ノクスは目を瞬かせ、何も言えなかった。
自分がやったのは、ただ娘が用意した湯を風で散らしただけだ。特別な浄化の魔力など一切込めていない。
極限まで不純物を取り除かれた水。
そこへ、かまどの灰に含まれる微細な成分が混ざり合う。
娘が何気なく作ったその湯は、山の精霊たちを爆発的に活性化させていた。
(……本当に、規格外な娘だ)
セラは気づいていない。ただの「お風呂の湯撒き」と「ちょっとした思いつき」で、恐ろしいほどの浄化を成し遂げてしまったことに。
緊張からくる疲労感が、安堵を含んだ心地よい脱力感に変わっていくのを感じながら。
ノクスは呆れたように、けれどどこか優しく目を細め、お気に入りの岩場に寝転がった。
「あ、そうだノクス! 麓の街の方も変な病気流行ってるらしいから、ついでにこのお水、向こうにも撒いてみる?」
セラは少し考え込み、
「……でも、流石に意味ないか」
と、自分で納得したように頷いた。
「お湯もっといると思ってたから余っちゃったな。……まあいっか。早いけど疲れたし、お風呂入ろ」
下から、セラの呑気な声が追い討ちのように響く。
(……今は、聞かなかったことにしておこう)
これ以上、この娘の思いつきに付き合っていてはこちらの身が持たない。




