第58話 山から流れる風
最近、山の麓の空気が妙に澄んでいる。
そんな噂が、街のあちこちで囁かれていた。
山道近くで休むと息が楽になる。
咳が落ち着く。
長居すると身体が軽い気がする。
もちろん、気休めかもしれない。
それでも、黒花の広がりが止まらない今、人々は少しでも楽になれる場所を求め始めていた。
◇
「……やっぱり、空気が違うな」
山道を歩きながら、エリオは小さく呟いた。隣を歩くルークも静かに頷く。
「ええ。街中より明らかに呼吸が楽に感じます」
二人は石鹸の材料を受け取りに、山を訪れていた。
だが、山へ足を踏み入れた瞬間から明確な違和感がある。
肺に入る空気が軽い。
王都で胸の奥に張りついていた重い淀みが、スーッと薄れていくような感覚さえあった。
「黒花関係の患者が感じたっていう話、本当かもしれないな……」
エリオは周囲を見回した。
山の空気そのものが、丸ごと浄化されているような異常な感覚。普通ではありえない。
そして、その原因に心当たりがあるであろう『神獣様』が、程なくしてエリオの視界に入ってきた。
「やあ、ノクス」
「ああ」
お気に入りの岩場でくつろいでいたノクスへ、エリオは声をかけた。
「この山、何かしてる?」
「何か、とは」
「とぼけないでくれ。空気が澄みすぎてる」
ノクスはしばらく黙っていたが、やがて面倒くさそうに小さく息を吐いた。
「……風呂の湯を撒いているだけだ」
「風呂?」
「セラが濾過し、高温の石で温めた湯だ。以前、残り湯で花が咲き乱れたことがあっただろう。不快な空気のせいで元気がない草木の為に、風に乗せ、山へ散らしている」
さも当然と言うような態度のノクスに、エリオとルークは完全に無言になった。
数秒遅れて、ルークが静かに額を押さえる。
「……なるほど。山から流れてくる空気が気持ちいい、という噂の原因はそれですか」
「そうであろうな」
ノクスは興味なさそうに答える。
「淀むと、セラが嫌がる」
「規模がおかしいんだよなぁ……」
エリオは深々と頭を抱えた。
おそらく本人に、大それたことをしている自覚は一切ない。セラにとっては、本当に“庭の環境を整えている”程度の認識なのだろう。
だが結果として、山全体が凄まじい規模で浄化され、その余波が麓の街にまで届いてしまっている。
そこへ。
「何の話?」
籠を抱えたセラが、不思議そうにひょっこりと顔を出した。
「あー……最近、山の空気が気持ちいいって街で噂になってるんだ」
「えっ、そうなの?」
セラは少し考え込み、ぽんと手を打った。
「いい感じに湿度が保たれてるんだね!」
「湿度?」
「あとマイナスイオンとか!」
「……なんだそれは」
聞き慣れない単語に、ノクスが眉を寄せる。
「えーっと、空気が綺麗な場所に多い、なんか体に良さそうなやつ?」
「随分ふわふわした説明ですね……」
ルークが静かにツッコミを入れる。
「でも、森とか滝の近くって空気美味しく感じない?」
「あぁ……言いたいことは分かる」
エリオは苦笑した。
自分が原因だとはこれっぽっちも思っていないからこそ、見当違いな方向へ話が逸れていく。
「……まあ、空気の話はいい」
エリオは気を取り直すように、小さく咳払いをした。
「それより、頼んでいた石鹸の材料はできているか?」
「うん! ばっちりだよ! こっちに来て!」
セラに案内されてロッジの裏手へ回ったエリオとルークは、そこに並べられた光景を見て、再び言葉を失った。
抽出された大量のオイル。不純物を一切感じさせない、きめ細かく精製された良質な灰。そして――。
「あ、お水はエリオたちがいつ来てもいいように多めに作っといたよ! すごく綺麗に濾過できた自信作! 沸騰させて殺菌も完璧!」
セラが胸を張って指差した先には、清らかな水をなみなみと湛えた大きな木樽がいくつも並んでいた。
それを見たルークが、息を呑んで硬直する。
「エリオ様……この水……」
「ああ……。間違いない」
近づくだけで肌の表面が粟立つような、濃密で清浄な気配。
それは、教会の最高位である『特級聖水』すら比較にならないほどの、凄まじい神聖力と精霊の祝福を帯びていた。
「でしょ? 飲んでみたらすっごく美味しかったんだー」
ニコニコと笑うセラに、二人はもうツッコミを入れる気力も湧かなかった。
「……しかし、これほどの量をどうやって王都へ? 人力で運べる重さではありませんよ」
ルークが困惑して眉を寄せる。
すると、セラは得意げに腰のポーチをごそごそと探り始めた。
「ふふん、大丈夫! じゃーん! 今回は特別に、マジックボックスを貸してあげる!」
「……ああ、あれか」
山に入る前にいくつか買っていたのは知っていた。機能重視の、装飾のないシンプルな小箱。
「この量持って帰るなら二つは必要かな? これに全部入れて持って帰りなよ」
セラは事もなげにポンとエリオへ手渡した。
(相変わらず、準備がいいんだか豪快なんだか……)
エリオは小箱を受け取りながら、苦笑いするしかなかった。
王都を出る前、エリオの心は黒花がもたらす絶望感で押し潰されそうだった。
怪しい聖女の企みを暴き、セラの存在を隠し通しながら、なんとか国を救わなければならない。
その重圧と秘密だらけの日々に、最近は毎日のように胃痛に悩まされていた。
だが――。
(……いや、本当にどうにかなるのかもしれない)
セラを見ていると、王都のどんよりとした淀みも、自身の抱えていた絶望も、全部どうでもよく思えてくる。
ただ目の前にある「出来ること」をこなし、気づけばとんでもない奇跡を起こしている。
セラがいる限り、まだ終わってはいない。
そんな確信にも似た安心感が、エリオの胸を満たしていった。
やがて、笑いが漏れた。
「……ふっ、ははは!」
「エリオ?」
「いや……ありがとう、セラ。お前のおかげで、なんだかすごく元気が出たよ」
エリオの顔には、王都での険しさは微塵も残っていなかった。
毒気をすっかり抜かれたような、清々しい笑顔だった。
「よしルーク。ありがたくこれに詰め込んで、急ぎ王都へ戻るぞ」
「はっ」
希望という名の特効薬を携え、エリオたちは力強い足取りで、澄み渡る山を下りていった。




