第56話 三人の話し合い
教会の小部屋でイザベラとの面会を終えたアリシアが、使用人用の通用口から誰にも見られずに屋敷へ忍び込んだ、その時だった。
「アリシア」
低く、静かな声。
アリシアの足が、ぴたりと止まった。
ゆっくりと振り返る。
そこにはゼインが立っていた。
腕を組み、壁に背を預けながら。
まるで最初からそこにいたかのように。
「……」
「少し、いいか」
◇
三人が向かい合ったのは、屋敷の奥にある人気のない小部屋だった。
窓から差し込む光は乏しく、空気はどこか冷たい。
逃げ道のないその空間で、ゼインと並んで立つエリオが静かに口を開く。
「お前が通用口からから抜け出し、聖女イザベラの元へ通っていたことは、すでに把握している」
その一言で、アリシアの心臓が早鐘のように打ち始めた。
言い逃れはできない。尾行されていたのだ。(どこまで……? 私が何を話したかまで、知られているの……?)
「どんな情報を渡していた」
ゼインの低い声が重なる。
アリシアは震える手を強く握りしめ、縋るように叫んだ。
「……嘘は、言っていません……!」
感情が堰を切ったように溢れ出す。
「私はただ、セラ様の変わった行動を、見たままお伝えしただけ! セラ様を傷つけようとしたわけじゃない! イザベラ様は孤児院にいた私を救ってくださった恩人で……だから、お役に立ちたかっただけで……!」
必死の弁明が、冷たい部屋に虚しく響く。
エリオもゼインも、冷徹な瞳でただ彼女を見下ろしていた。
その氷のような沈黙が、アリシアの心をじわじわと削り取っていく。
「……では、聞くが」
やがて落とされたエリオの声は、ひどく静かだった。
「お前はその『恩人』の治療を受けた後、本当に良くなった人間を、一度でも見たことがあるか」
アリシアの呼吸が、ぴたりと止まった。
頭の奥で、カチリと嫌な音がした。
記憶を辿る。治療を受けた直後は確かに楽になる。だが、しばらくするとまた症状が戻る。それどころか、以前より酷く――……。
気のせいだと思っていた。
いや、気のせいだと『思い込みたかった』のだ。
足元から、自分の信じていた世界がガラガラと崩れ落ちていく感覚。
血の気が引き、視界がぐらりと揺れた。
「お前がメイドたちを先導し、セラ様を孤立させて屋敷から追い出したことも分かっている」
言葉を失ったアリシアに、ゼインが容赦なく現実を突きつける。
「お前は『恩人』のためだと信じて、結果的にセラ様を追い出した。……お前が何をしていたか、もう分かるな?」
――え。
アリシアは力なくへたり込んだ。
私が、恩を返すために誇りを持ってやったことで。
罪のないセラ様を追い出し、あろうことか、偽りの『聖女』に加担していた……?
「そんな……私は……」
両手で顔を覆う。
取り返しのつかないことをした。もう、誰にも弁解できない。
後悔と絶望が、アリシアの胸を黒く塗り潰していく。床に、ポタポタと大粒の涙が落ちた。
「……全部、話します」
嗚咽混じりの、かすれた声だった。
「イザベラ様について知っていること……全部……」
それから、アリシアは震える声で話し続けた。
イザベラとの密会の頻度。報告していたセラに関する詳細。そして――今日、教会の部屋で「用済み」として冷たく切り捨てられたことまで。
すべての告白を終えると、アリシアは糸が切れたように床に崩れ落ちた。
薄暗い小部屋に、彼女の痛切なすすり泣きだけが響く。
床に伏して泣き崩れるアリシアを、エリオはただ静かに見下ろしていた。
(本当なら、今すぐこの家から叩き出したいところだ)
胸の奥で、怒りが渦を巻いている。
セラを傷つけ、屋敷から追い出すよう仕向けた人間を、これ以上この場所に置いておきたくはなかった。
(だが幸いにも、今セラはこの屋敷にいない。この女がセラの視界に入ることはないし、下手に追放して監視の目を逸らす方がかえって危険だ)
エリオは小さく息を吐き、その感情を理性で押さえ込んだ。
(それに、王都の混乱の裏で何らかの糸を引いている疑いが濃いイザベラに顔が利くアリシアという「駒」は、あまりにも利用価値が高い。俺の個人的な感情だけで動くわけにはいかない)
「……泣いて謝罪するつもりなら、ここで話は終わりだ」
エリオの静かな声に、アリシアの肩がびくりと大きく跳ねた。
「一つだけ、選択肢をやろう」
アリシアが、涙に濡れた顔を恐る恐る上げる。
「このままイザベラの元へ通い続けろ。そして、あちらの動向や不審な動きを、すべて俺たちに報告しろ。偽の情報を流しつつ、イザベラの内情を探る。要するに、二重スパイになれということだ」
アリシアの目が大きく見開かれた。
それは、見つかればイザベラからどんな報復を受けるか分からない、極めて危険な役割だ。
「……やります」
震える声で、アリシアは再び床に額を擦り付けた。
「何でも……やります。私がしてしまったことの、償いになるのなら……っ」
「……簡単に償えるとは思わないことだ」
エリオの声は静かだが、絶対的な重さがあった。
「お前がセラから奪った居場所は、それほど軽いものではない。今のお前に、我々からの信用など欠片もない」
その視線が、床に這いつくばるアリシアを射抜く。
「もし再びセラを裏切るような真似をすれば……二度目の温情はない。この屋敷からも、王都からも、お前の居場所は完全に消えると思え」
隣で壁に寄りかかっていたゼインも、無言のまま静かな圧を放つ。
「っ……はい……! 必ず……!」
「言葉での謝罪は要らない。行動で示せ。これからは――セラのために働け」
その言葉に、アリシアは声も出せず、ただ深く、深く頷き続けた。
冷たい床に落ちる涙の跡だけが、薄暗い部屋に増えていく。
エリオは懐から小さな包みを取り出すと、床の上のアリシアに向かって静かに放った。
こつん、と乾いた音がして、布の隙間から淡い色の石鹸が転がり出る。
「……エリオ様、これは」
「今日、再びイザベラの元へ向かえ。『どうか見捨てないでほしい。まだお役に立てる証拠として、例の薬を盗んできた』と言って、それを渡すんだ」
アリシアが、震える手で石鹸を拾い上げる。
「そして、こう報告しろ。『この薬の正体は、聖水を使って作られたものだ』とな」
「聖水……?」
アリシアが戸惑ったように目を瞬かせる。
エリオは静かに目を細めた。
「嘘ではない。隠すつもりのない事実だ。いずれイザベラ本人の耳にも入るだろう」
イザベラは『聖女』だ。
出所不明の奇妙な薬草や魔法薬よりも、教会と関わりの深い『聖水』が使われていると聞いた方が、奴は必ず食いつく。そして「なんだ、その程度のものか」と見くびり、必ず油断するはずだ。
「イザベラがどう解釈するかは勝手にさせておけ。お前はただ、その事実だけを伝え、再び奴の懐に潜り込め」
「……はい……っ!」
アリシアは石鹸を強く胸に抱き込み、決意を込めて深く頭を下げた。




