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無自覚聖女から始まる辺境山暮らし 〜婚約破棄されたけど、神獣と精霊に愛されています〜  作者: なな日々
第3章:山の恵みは規格外編

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第54話 聖女の歪んだ祈り

 ――少し時は遡る。


 まだ“石鹸”が街へ広がる前。


 黒花による異変は、静かに街を侵食し始めていた。


 使われなくなった井戸の周囲。

 小川の側。


 最初は、小さな異変だった。


 誰かが踏み潰し、誰かが焼き払い、それで終わる程度のものだった。


 けれど。


「また増えてるわ……」


 朝の市場で、開店準備をしている女性が不安げに呟く。


 昨日取り除いたはずの黒花が、今日にはまた咲いている。


 しかも以前より数が多い。


「最近、身体が痒いんだよな……」


「うちの息子もだ。熱まで出てる」


「でも聖女様が診てくださるって」


 その言葉に、周囲の表情が少しだけ和らいだ。


「……ああ、なら安心だ」


「聖女様がいるからな」


 誰かがそう言えば、皆が頷く。


 不安を押し込めるように。


 まるで祈るみたいに。


     


 教会には、長い列ができていた。


 咳き込む者。

 腕を掻きむしる者。

 赤黒く変色した皮膚を隠す者。


 以前より明らかに患者が増えている。


 それでも人々は静かだった。


 ここに来れば助かる。


 そう信じているからだ。


「次の方を」


 静かな声が響く。


 白い衣を纏ったイザベラは、疲れを一切見せず微笑んでいた。


「お辛かったでしょう」


 優しく声をかけながら、そっと患者の腕に触れる。


 赤く腫れた皮膚。


 そこへ、黒い靄が薄く沈み込んだ。


 患者の身体がびくりと震える。


「あ……っ」


「大丈夫です。力を抜いてくださいね」


 イザベラは穏やかに微笑む。


 やがて。


「……痒く、ない」


 男は呆然と呟いた。


 先ほどまで掻き壊すほど痒がっていたはずなのに、今は嘘みたいに感覚が薄れている。


「ありがとうございます……! 聖女様……!」


 男は涙ぐみながら頭を下げた。


 周囲からも安堵の声が漏れる。


「やっぱり聖女様だ……」


「こんなにすぐ治るなんて……」


 イザベラは静かに目を伏せた。


「どうか無理はなさらず。安静にしてくださいね」


「はい……!」


 患者は何度も礼を言いながら去っていく。


 その背中を見送りながら、イザベラはそっと指先を握った。


 最近、以前より力が鈍い。


 効きが遅い。


 以前なら一瞬で静まっていた症状も、今は少し時間がかかる。


 ――まだ足りない。


 この程度では。


 もっと力が必要だ。


 もっと、この街を満たさなければ。


 黒花が増えるたび、空気は濃くなる。


 あの方の力が、この街へ広がっていく。


 それでいい。


 そうすれば、私はもっと救える。


 もっと、“聖女”になれるのだから。


「聖女様、少しお休みを――」


「大丈夫です」


 司祭の言葉を、イザベラは柔らかく遮った。


「まだ診る方がいますから」


 疲れを見せない微笑み。


 その姿に、司祭は感動したように目を潤ませた。


「なんとお優しい……」


「ご自身を犠牲にしてまで……」


 イザベラは微笑みを崩さない。


 その時、別の司祭が慌てた様子で駆け寄ってきた。


「聖女様、聖水庫の備蓄が減っています。追加の祈祷をお願いできれば……」


 一瞬だけ、イザベラの目が細くなる。


「……申し訳ありません」


 けれど次の瞬間には、いつもの穏やかな表情に戻っていた。


「今は治療に力を注ぎたいのです」


 静かに目を伏せる。


「患者の数が増えていますから……聖水にまで力を回す余裕がなくて」


「そ、そうでしたか……!」


 司祭は慌てて頭を下げた。


「我々としたことが、聖女様のお身体も考えず……!」


「お気になさらないでください」


 イザベラは優しく微笑む。


 完璧な聖女の顔で。


 誰も疑わない。


 疑うはずがない。


 自分は、この街を救っているのだから。


「次の方をどうぞ」


 そう告げる声は、今日も完璧な聖女そのものだった。


     


 診療が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 教会の廊下を歩きながら、イザベラは小さく息を吐く。


 身体が重い。


 けれど、不快ではない。


 空気が濃い。


 黒花が増えたせいだろうか。


 むしろ以前より、力が馴染む感覚すらあった。


「……もう少し」


 小さく呟いた、その時。


 月明かりの差し込む窓の外に、小さな黒花が咲いているのが見えた。


「……ふふ」


 イザベラはそっと近づく。


 黒花は、ゆらりと揺れた。


 薄い黒い靄が花の周囲に滲む。


 そしてそれは、イザベラの指先から漂う靄と自然に混ざり合った。


 イザベラはそっと目を細める。


 患者が増えるほど、自分は必要とされる。


 黒花が広がるほど、力が満ちる。


 ――なんて、効率がいいのだろう。


「もっと増えるのよ」


 優しく、花へ語りかける。


 足元で黒花が揺れた。


 まるで頷くみたいに。

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