第41話 完成した灰石鹸と、初めての泡立ちテスト
翌朝。
ロッジの中に、からん、と小気味良い音が響いた。
「おおーっ! ちゃんと固まってる!」
セラは目を輝かせながら、縛っていた蔓を解き、割った竹筒から中身を取り出した。
中から現れたのは、つるりとした質感の細長い固形物。
灰と獣脂を混ぜたのだから、もっと泥臭い灰色になるかと思いきや――予想以上に白く、滑らかな仕上がりだった。
「すごいすごい! ちゃんと石鹸になってるよ、ノクス!」
「…………」
嬉しそうに塊を掲げるセラを見て、ノクスは静かに目を細めた。
(……ただの灰と脂のはずだがな)
ノクスの目には、その小さな塊から立ち上る気配がはっきりと見えていた。
ただの汚れ落としというには、妙に澄み切った清浄な力。
この山の木々の灰と、魔力を持つ獣の脂を、この無自覚な娘が練り上げた結果……どうやら、ただの生活用品では済まない物が出来上がってしまったらしい。
「ちょっとお肉の脂っぽい匂いはするけど、洗う分には問題なさそう! 適当な大きさに切って、さっそく試してみよっと!」
セラはナイフで石鹸を切り分けると、水を入れた木桶を用意した。
そして、くるりとノクスの方を振り返る。
「ノクス! ちょっと手ぇ貸して?」
「……我の足で試すつもりか」
「うん! ほら、はい、お手!」
セラはニコニコと笑いながら、神獣に向かって犬に言うような気安さで手を差し出した。
「ふざけるな。我の身体は魔力で保護されている。泥など放っておいても自然に落ちる」
「えー? でも昨日お肉獲ってきてくれた時、足の先にちょっと泥ついてたよ? 綺麗にした方が絶対気持ちいいって!」
セラは全く怯むことなく、木桶を持ってとてとてと近づいてくる。
「おい、寄るな。我は――」
「ちょっとだけだから。ね?」
見上げてくる真っ直ぐな瞳に、ノクスは小さく息を吐いた。
この娘に悪気など一切ない。ただ純粋に、「洗ってあげたい」と思っているだけだ。
「……好きにしろ」
「やった! ありがとう!」
呆れて前足を差し出したノクスに対し、セラは嬉しそうにその巨大なモフモフの足を抱え込んだ。
セラは手の中で石鹸をこすり合わせ、少量の水を含ませた。
すると、思いのほかきめ細やかな泡が、もこもこと立ち上がる。
「おお! 結構いい泡立ち!」
そのまま、セラの小さな手が、泡ごとノクスの前足を包み込んだ。
指先が柔らかな毛並みの奥に入り込み、厚い肉球の隙間を優しく揉み解していく。
「どう? 痛くない?」
「……ふん。ただ撫でられているようなものだ」
最初はそっぽを向いていたノクスだったが――数秒後、その青い瞳がわずかに見開かれた。
(……なんだ、これは)
セラの指先から伝わる温もりと、泡に溶け込んだ清浄な気が、ノクスの足先からじんわりと全身へ広がっていく。
山の均衡を管理する神獣として、常に異変や不穏な気配を監視し続けている――その張り詰めた緊張からくる、芯に溜まった微かな疲労感。それが、まるで春の雪解けのように、するすると溶けて消えていく感覚。
そして何より――セラの絶妙な力加減による肉球マッサージが、純粋にめちゃくちゃ気持ちよかった。
「結構泥ついてたみたい。泡が少し灰色になってるよ。よし、綺麗になーれ」
セラは楽しそうに鼻歌を歌いながら、丁寧にマッサージを続ける。
ノクスは強張っていた肩の力が抜け、無意識のうちに「ふぅぅ……」とだらしない鼻息が漏れそうになるのを、必死に噛み殺した。
(だが、ピンと立っていた耳はすっかり平らに伏せられ、背後では巨大な尻尾がぱた……ぱた……と無防備に床を叩き始めていることに、本人は気づいていない)
やがて、水で泡を洗い流し、清潔な布でぽんぽんと水気を拭き取ると。
「はい、おしまい! すっごくふわふわになったよ!」
セラの言う通り、洗い上がったノクスの前足は本来の白銀の輝きを取り戻し、触り心地の良い極上の毛並みになっていた。
「どう? さっぱりしたでしょ?」
セラが満足げに見上げてくる。
ノクスは自分の前足を見下ろし、それからセラを見た。
洗われた右足は、羽のように軽く、心地よい。
対して、洗われていない他の足が、妙に重だるく感じてしまう。
数秒の沈黙の後。
ノクスは「ふん」と短く鼻を鳴らすと、顔を背けながら、スッ……ともう片方の前足をセラの前に差し出した。
「……え?」
「片方だけでは釣り合いが取れん。……どうせなら、そっちも洗え」
どこか偉そうな態度は崩さないものの、その尻尾の先は、期待するようにぱたぱたと微かに揺れている。
セラはきょとんとした後、ふふっと吹き出した。
「あはは! 分かった分かった、こっちの足もだね」
セラは笑いながら、差し出されたもう片方の前足も丁寧に泡で包み込む。
再び極上のマッサージと浄化の波に包まれ、ノクスはたまらず「ふぅぅ……」と深い息を吐き、そのまま床にぺしゃんと顎を乗せた。
「うん、足は完璧! でもこうなると、なんか体の泥も気になってきたかも」
「…………」
「ノクス、背中も洗っていい?」
「……勝手にしろ」
もはや抵抗する気力(という名の建前)すら完全に放棄した神獣は、されるがままに巨大な体を床へ横たえた。
神獣の威厳は、完全に泡と消えた。
すっかり極上スパの虜になってしまった相棒の全身を、セラはご機嫌な様子でもこもこに洗い上げるのだった。
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