第39話 足りない聖水
ローエン家の屋敷へ戻った頃には、空はすっかり夕焼けに染まっていた。
ルークたちと別れたエリオは、玄関ホールへ足を踏み入れた瞬間、待ち構えていた使用人に足を止められる。
「エリオ様。カーライル公爵家より遣いが」
その言葉に、エリオの眉がわずかに動いた。
「……内容は?」
「ルシアン様より、聖水について相談したいとのことです」
その言葉に、エリオは一瞬だけ息を止めた。
――まさか。
脳裏に浮かんだのは、セラの作る聖水だった。
普通の聖水とは比べ物にならない、あの異常な水。
嫌な汗が背中を伝う。
だが。
「以前実験していた水源装置について相談したい」との事でした。
続いた言葉に、エリオは胸の内でそっと息を吐いた。
……そっちか。
表情に出ないよう気をつけながら、小さく頷く。
「分かった。行くと伝えておいてくれ」
◇
数日後。
カーライル公爵家の研究棟へ案内されたエリオは、部屋へ入った瞬間、小さく目を見張った。
机一面に並べられた魔石、設計図、精霊術式のメモ。
そして中央には、以前エリオが持ち込んだ濾過装置の材料らしきものが準備されていた。
「やあ、エリオ殿」
振り返ったルシアンは、いつも通り爽やかな笑みを浮かべていた。
「急に呼んで悪かったね。教会で最近、聖水不足が問題になっているようなんだ」
「聖水不足……ですか?」
「ああ。神官たちの負担が年々増えているらしくてね。聖女イザベラにも依頼が増えているし、地方教会まで十分な量を回せていないそうでね」
ルシアンは机の上の資料を軽く叩く。
「そこでカーライル家にも協力要請が来た。精霊術式による補助や、水質改善の研究を進めてほしい、と」
エリオは静かに相槌を打ちながらも、内心では別のことを考えていた。
――教会が、そこまで逼迫している?
正直、少し意外だった。
王都の教会は盤石に見えたし、聖水など当然十分にあるものだと思っていた。
「それで、この前の君の実験を思い出してね」
ルシアンは嬉しそうに濾過装置へ視線を向けた。
「以前見せてくれた装置、あれは非常に興味深かった。完成された濾過装置に魔法を付与したが、肝心の構造までは詳しく聞けていなかっただろう?」
そこまで聞いて、エリオはようやく完全に肩の力を抜いた。
本当に、以前の実験の話らしい。
「……以前お見せした通り、基本は物理的な濾過です。上から石、砂、炭を重ね、不純物を取り除きます」
「なるほど……!」
ルシアンの目が輝く。
「その素材の順番にも意味はあるのかい?」
「え?」
「ほら、君は以前かなり自然に組んでいただろう? あれは経験則なのか、それとも理論があるのか気になってね」
そう問われ、エリオは一瞬だけ言葉に詰まった。
脳裏に浮かんだのは、山で淡々と作業しながら独り言を言うセラの姿だった。
『炭は匂いとか細かい汚れを吸ってくれるから、最後の方がいいよね』
『砂だけだと細かい泥が残るし、先に石で大きなゴミを止めた方が詰まりにくいよね』
小さい頃から、セラはよく“実験”だと言って妙な遊びをしていた。
泥水を布で濾して遊んでいたこともあれば、花を煮詰めて「色が変わった」と騒いでいたこともある。
当時は変わった子供だと思っていたが――。
ああいう積み重ねだけで、ここまで理論立てて説明できるものなのだろうか。
エリオは軽く咳払いしてから口を開いた。
「……大きな不純物から順に取り除く方が効率がいいかと。先に石で葉や泥を止め、その後に砂、最後に炭で細かい汚れや臭いを吸着させます」
「吸着……!炭にはそんな効果があるのかい?」
ルシアンは感心したように小さく頷き、手元の紙へさらさらとペンを走らせた。
「なるほど……。先に大きな異物を除去することで、後の層が詰まりにくくなるわけか」
「ええ。効率もかなり変わるはずです」
「面白いな。単純な構造に見えて、よく考えられている」
ルシアンはそう呟きながら、手元の資料へさらさらと書き込んでいく。
その様子に、エリオは小さく苦笑した。
相変わらず興味を持った話になると集中力が凄い。
公爵家の嫡男でありながら、こうして自ら研究棟へ足を運ぶあたり、いかにもルシアンらしかった。
だが同時に、妙な引っ掛かりも残っていた。
聖水不足。
教会から公爵家への直接の協力要請。
それはつまり、国全体でも無視できない問題になり始めているということではないのか。
「もしこの研究が形になれば、地方教会の負担も減らせるかもしれない」
ルシアンは顔を上げる。
「ローエン家としても、協力してもらえると助かる。もちろん正式な話になるだろうし、君の父上にも話は通すつもりだよ」
エリオは少しだけ目を細めた。
――ローエン家も、か。
ただの個人的な研究では終わらない。
教会まで絡み始めた以上、いずれ山のことにも辿り着く者が出てくるかもしれない。
セラを守るために動いているはずなのに。
その一方で、自分たちが少しずつ“山”へ近づく道を作っている気もした。
……この選択で、本当に正しいのだろうか。




