第38話 山のお茶会と、放っておけない人
ロッジの前には、焼きたての香ばしい匂いが漂っていた。
「ちょうどよかった! 今日、ベリーがいっぱい採れたから、パン焼いたの」
セラは嬉しそうに籠を持ち上げた。
中には、こんがりと焼き色のついた丸パンが並んでいる。ところどころに赤い果実と木の実が顔を覗かせ、甘い香りがふわりと広がった。
「パン……?」
ゼインが呆然と呟く。
ついさっきまで、神話級の存在を前に命の危険を感じていたというのに。
次の瞬間には、森の中で焼きたてパンを勧められている。
状況の落差が激しすぎて、頭が追いつかなかった。
「どうぞ座って! 今、お茶も淹れるわね」
セラは慣れた手つきでテーブルへパンを並べ始める。
その様子を、ルークは複雑な顔で見つめていた。
(……本当に、この人が)
あの奇跡を起こした本人なのか。
目の前にいるのは、どう見ても普通の少女だった。
少し世話焼きで、お人好しで、どこか抜けている。
そんな少女が、神獣と共に山奥で暮らしている。
しかも本人は、その異常性を何一つ理解していない。
「はい、どうぞ!」
差し出されたパンを、ゼインは恐る恐る受け取った。
まだ温かい。
ふわりと漂う香りに誘われるように、一口齧る。
「……っ」
思わず目を見開いた。
外は香ばしく、中は驚くほど柔らかい。
ベリーの甘酸っぱさと木の実の食感が絶妙で、噛むたびに優しい甘みが広がっていく。
「うま……」
「でしょう? この辺の木の実、すごく美味しいの!」
嬉しそうに笑うセラ。
ルークも静かにパンを口へ運び――そして、言葉を失った。
「……なんだこれ。疲れが、軽く……」
「ふわふわだし、妙に身体が温まるな」
山を登ってきたことで重くなっていた身体が、じんわり軽くなっていく感覚。
ただ美味しいだけではない。
この空間の全てが、どこかおかしい。
だが。
「出来立てだもの! それにしっかり発酵もさせてるの! 発酵って凄いよね」
本人だけは、本気でそう思っている顔だった。
エリオは黙って紅茶を飲みながら、遠い目をした。
(もう、何を見ても驚かん……)
いや、本当は驚いている。
毎回ちゃんと頭が痛い。
ただ、ツッコむ気力が尽き始めているだけだ。
「ここの暮らしも、最近だいぶ快適になったの!」
セラが嬉しそうに笑った。
「快適?」
「そうなの! 最近お風呂つくったの」
ルークとゼイン、それにエリオまで動きが止まる。
「……風呂?」
「やっぱりお湯に浸かれるって最高で! 今ではノクスもお気に入りなの」
「…………」
ルークとゼインが無言で視線を合わせた。
神獣が風呂に入っている。
もう何を聞いても驚かないと思っていたが、普通に驚いた。
しかもセラは完全に世間話のテンションである。
この人、自分がどれだけ異常な環境にいるのか、本当に理解していない。
そんなセラを見ながら、ゼインがぽつりと呟く。
「……危なっかしいな」
「え?」
「あ、いや」
慌てて誤魔化そうとしたゼインだったが、ルークは静かに頷いていた。
危険な山。
神獣。
奇跡の水。
そんなものに囲まれながら、この少女は一人で笑っている。
利用しようと思えば、いくらでもできる。
狙う人間だって、これから必ず出てくる。
なのに本人は、自分を守ることにあまりにも無頓着だった。
三人は、セラの衝撃発言が頭から離れないまま山を下りた。
ルークはゆっくりと顔を上げ、エリオを見る。
「……エリオさん」
「なんだ」
「俺たち、協力します」
エリオがわずかに目を細めた。
「セラさんのことです」
ルークは真っ直ぐに言った。
「見てたら分かります。この人、自分がどれだけ危ない存在なのか全然分かってない」
「ルーク……」
「だから俺たちにも、守る手伝いをさせてください」
――こうして、セラの危うさに気づき、守りたいと願う者がまた増えたのだった。




