第36話 お貴族さまの家だった
ローエン家の広大な敷地の一角。
「こちらが応接室です」
案内役の使用人にそう通された部屋へ足を踏み入れた瞬間、ルークは思わず息を呑んだ。
天井まで届く書棚、磨き上げられた床、座るのを躊躇うほど精緻な刺繍のソファ。これで「ただの応接室」だというのだから、ローエン家の本邸とはいったいどうなってしまうのだろうか。
「……おいルーク。俺たちの雇い主って、ローエン家の人間だったのかよ」
「おい。声を小さくしろゼイン」
二人は示し合わせたように背筋を伸ばし、ガチガチに身を強張らせたままソファの端に浅く腰を下ろした。だが、落ち着く間もなかった。
ガチャリと扉が開く音がして、二人は弾かれたように立ち上がった。
「待たせたな」
入ってきたのは、見慣れた平服の上に旅装を纏ったエリオだった。その顔には、どことなく深い疲労感が滲んでいる。
室内を見回したエリオは、ソファの端で直立不動に近い姿勢で立つ二人を見て、微かに眉を上げた。
「あー……外で待ち合わせにすれば良かったか? あまり緊張しないでくれ、仕事の話をするだけだ」
「い、いえ、そんな」
「とりあえず座ってくれ」
促されてようやくソファに座る二人をちらりと見て、気を遣わせてしまったことに気付きエリオは小さく苦笑した。
ここ数日のローエン家の大混乱を思えば、気にする事でもない。
(……ようやく、屋敷の外に出られる)
あの日、持ち帰った樽一杯の『奇跡の水』。あれは長男のルーカスが顔を真っ青にしながら幾重にも厳重な封印を施し、ローエン家最深部の宝物庫へと「最高機密の非常薬」として安置されることとなった。
ただ、「お姉さまにもらった僕のお水だもん!」と絶対に譲らなかったフィンの水筒にだけは、たっぷりとその水が補充されている。無邪気な弟が水筒を鳴らしてごくごくと飲むたびに、ルーカスが頭を悩ませる日々は今も続いている。
そして父に至っては、神話の存在である神獣が姉の傍らに当然のように存在しているという事実に知恵熱を出し、丸一日寝込んでしまった。
(……まあ、いい。あっちの問題はルーカス兄上に任せよう)
エリオは思考を切り替え、鋭い視線をルークたちに向けた。
「準備はいいか」
「ああ。……本当に、あの奥地に案内してくれるんだな?」
ルークが、緊張した面持ちでエリオを見返す。
かつて仲間を失った山だ。あの時の記憶は、場数だけは踏んできた彼らの身体に今も刻まれている。それだけでも十分すぎる理由があるのに、今回はさらに通常の冒険者が決して立ち入らない未知の深部へと足を踏み入れることになる。顔の強張りを隠しきれないのも、無理はなかった。
「約束だからな。だが、入山する前に絶対の条件を三つ、提示しておく」
エリオは歩みを止め、静かだが凄みのある声で告げた。密偵として培った冷たい気迫と、貴族としての絶対的な威圧感に、ルークたちが思わず息を呑む。
「一つ、何があっても決して武器には手をかけるな。二つ、何を見ても大声で騒ぎ立てるな。三つ――山の『主』には、最大の敬意を払え。相手はただの魔物ではない。機嫌を損ねれば、我々など一息で消し去れる神話の存在だということを忘れないでくれ」
エリオの忠告に、冒険者二人の顔からスッと血の気が引いた。あれだけ飄々としていた男が、初めて見せる真剣な顔。それだけで、「山の主」が冗談の通じる相手ではないと十分に伝わった。
「ぬ、主って……あの山を管理する存在……?」
「お前たちの立ち入りはセラに免じて、今回は許可してくれたが、慈悲深い相手だとは勘違いしないことだ」
(もっとも山で共に過ごした限り、セラやフィンに対してだけは妙に甘かったが)という内心のツッコミは、エリオはあえて伏せておいた。ここで彼らにしっかりとした危機感を持たせ、絶対に余計な真似をさせないための防波堤を作る必要があったからだ。
「……分かった。命に代えても、条件は守る」
「わかった。では、行くぞ」
それぞれに覚悟を固めた冒険者たちを連れ、エリオは再びあの山道へと歩き出した。




