第35話 規格外すぎる山土産と、ローエン家の胃痛
ローエン家の屋敷に帰還したエリオとフィンは、玄関ホールに入った直後、足早に近づいてきた長男ルーカスに呼び止められた。
「戻ったか、二人とも。……エリオ、その大層な荷物はなんだ」
「セラからの『土産』ですよ。重くて肩が抜けそうだ」
「……嫌な予感しかしないな。いいか、面倒な目につく前に、奥の父上の執務室へ急げ。セラの近況は無闇に広めるべきではない」
兄弟間の暗黙の了解にエリオも静かに頷く。
ルーカスの的確な誘導により、三人は誰にも見つかることなく父の待つ執務室へと滑り込んだ。
「フィン! エリオ! 無事だったか!」
「ええ。……とりあえず、これを下ろさせて下さい」
執務机から立ち上がった父の横で、エリオは抱えていた木樽を「ドスッ」と重い音を立てて床に置き、ふうっと息を吐いて肩を回した。
過酷な東の山へ向かったはずの末弟・フィンは、息を切らすどころか疲労の欠片もなく、むしろ出発前よりも有り余るほどの元気がみなぎっていた。
「父上! お山って最高だったよ! 父上が持たせてくれたサンドイッチをね、セラお姉さまとみんなで食べたよ! お姉さまも、すっごく美味しいって言ってたよ!」
「そうか、そうか……私の持たせたものを喜んでくれたか。セラが元気そうに笑っていたなら、何よりだ」
ニコニコと笑うフィンの報告に、父とルーカスは目尻を下げて温かい息を吐いた。
だが、平和な時間はそこまでだった。
「それにね、お水がすっごく美味しいんだよ!」
フィンがそう言ったのを合図に、エリオは先ほど下ろした木樽の蓋を開け、近くにあった空のグラスに中身を注いだ。
「エリオ、それは……」
「ああ。例の『美味しい水』だよ。フィンが気に入ったから、セラが気前よく樽で持って帰ればと」
ルーカスはすでにこの水の異常性を知っていた。だからこそ、怪訝そうにそのグラスを持ち上げ、ほんの一口だけ口に含んだ。
――徹夜続きだった頭の芯が一瞬で澄み渡り、鉛のように重かった体が嘘のように軽くなる。
知識として分かっていたはずなのに、改めて肌で実感すると話が違った。これが、樽一杯分。日常的に飲料水として使われている。
その事実が頭の中で繋がった瞬間、ルーカスの端正な顔から、サァッと血の気が引いていった。
「……エリオ。お前、自分が何を持ち込んだか分かっているのか」
グラスを置くルーカスの手が、カタカタと微かに鳴った。
「待て、ルーカス。まさか……」
ルーカスのただならぬ様子と、グラスから漂う澄んだ気配に、父の顔色も一瞬で強張った。
「この間、死にかけた私を救ってくれた水と、同じものか……?」
「ええ。父上の治療に使ったのと同じ、ただの『山水を濾過したもの』だそうです」
エリオの淡々とした肯定に、重厚な執務室に絶望的な沈黙が落ちた。
「我々が血を吐く思いで情報を隠しているというのに……当の本人は、最高位の治癒薬にも等しい代物を、ただの飲料水として樽でバラ撒いているというのか……」
肉体はこれ以上ないほど健康になったはずなのに、極度の疲労を覚えたようにルーカスが頭を抱え、机に突っ伏す。
だが、真の追撃はここからだった。
「あとね、お父様! 僕ねぇ、お姉さまの相棒に会ってきちゃったんだぁ!」
エリオは内心で、しまった、と思った。
水の件だけでも父への衝撃は十分すぎる。神獣の話は、もう少し段階を踏んで伝えるつもりだったのだ。
「……あー。フィン、それは父上にはまだ」
エリオが静かに制止しようとするが、興奮した弟は止まらない。
「えー? だってすごくかっこよかったんだもん! ノクスっていうおっきいフェンリルでね、毛がすっごくふわふわだったよ!」
「…………は?」
神獣の存在を知らされていなかった父は、大声を上げることもできず、ただ間抜けな声を漏らした。
貴族としての理性が、その言葉の意味を処理しきれずにフリーズしている。
「ふぇ、んりる……お前、まさかそれに、触ったのか……?」
「うん! とっても強くて、狩りとかもしてくれるってセラお姉さまが言ってたよ!」
「…………狩り」
「ノクスのとってきてくれるお肉、すっごく美味しいんだって! 今度僕にも食べさせてくれるって約束したの!」
再び、重い沈黙が落ちた。
「……神話の存在を、猟犬代わりに……?」
父はただゆっくりと、魂が抜けたように深い革張りの椅子に沈み込んだ。額を押さえるその手は、小刻みに震えている。
ルーカスもまた、神獣の存在こそ知っていたものの、『日々の獲物を狩らせている』という斜め上の情報に被弾し、無言で胃の辺りを強く押さえていた。
(……ふっ。これで、少しはこの重圧を共有できるな)
エリオは、完全に崩壊したローエン家の首脳陣を眺めながら、淹れられていた冷めた紅茶を優雅に口へ運んだ。
ここ最近で一番、美味い紅茶だった。




